「あたりまえ」の幸せ

山脇 正子 副牧師

 礼拝の席がぽっかりと2つとも空いています。奏楽をしながら、いつもそこに座っている両親の姿が見えない事でちょっぴりさみしさを感じていました。I姉と高校生の時から礼拝を守っていますが祈りを指名されると「いつものように…今日も礼拝に出席することができて…」と祈っていらっしゃるのが耳の奥に残っています。I姉はなおそのように祈りを続けられるであろうが、その祈りに、いつもいいしれない響きを感じとりながら心和している私なのですが…。

 「いつものように-共に…」両親は茂原に導かれて足かけ5年になります。来たその時から前列に座っていました。Y兄が座っていらっしゃったのに両親がはやばやとそこに座る事で移って下さった。否、移らざるを得なかった事でしょう。定席をゆずってそっとしてくださったあたたかさに感謝したことでした。

 私も茂原教会に任命を受け、みなさまと共に礼拝をささげるようになって20数年がたちました。それぞれの兄姉の初めていらっしゃった時、あそこに座られて礼拝をなさったと今はない高師の礼拝堂の席まで脳裏に焼き付いています。天国に帰られた方々の定席も…。大網礼拝が始まり、十数人の方々が大網に行かれて空いてしまった席…。とても淋しかった事を覚えています。今はまた、どなたかがその場を定席として礼拝を守っていらっしゃるのですが…。

 「いつものように…」礼拝を守る事のできる恵み「あたりまえ」の幸せをもう一度感じています。心はこちらに向けながら体調がお悪かったり、事情がゆるされない中で礼拝をと願いながらかなえられない方々の事も覚えながら今日も共なる礼拝を捧げるものでありますようにと、思います。

 『「あたりまえ」の世界に住んでいるものは「あたりまえ」のありがたさ、すばらしさに気がつかない。すべてが「あたりまえ」なのである。しかし「あたりまえ」が「あたりまえ」でなくなるとき、「あたりまえ」のありがたさがわかる』 (隠されたる神 P45)

2001年8月号