「正義が造り出す平和」

203年12月24日 キャンドル礼拝 
イザヤ書32章17、18節

        

メリークリスマス。昨年の2月にロシアのウクライナ侵攻が始まりました。そして今年はハマスがイスラエルに攻撃を仕掛けました。それらはとても衝撃的な出来事でした。しかし私が個人的に驚いたことは、ロシアの侵攻に対してウクライナが抗戦を決めたことであり、それを西側の国々が支援したことです。

戦争は武器を大量に消費する商売的な一大イベントですので、残念なことに戦争をすることを望んでいる者がいて一度、戦争が始まると戦争を止めさせないで、続けさせることは歴史が証明するとおりです。政治的な考えはクリスチャンでもそれぞれです。私は自分の政治的な意見を話すつもりはありません。

ただ子どもに説明をすることが出来ないことが今起こっています。ある学校のクラスにロシア君とウクライナ君がいたとします。ロシア君がウクライナ君に暴力を振るったら二人を仲裁して争いを止めるのが大人の役割です。しかし西側の多くの国は悪いのはロシア君だからと言って、ウクライナ君に武器を渡してロシア君と戦わせます。このようなことは学校では有り得ない話です。

ロシア君もウクライナ君も教室の中で相手に向けて銃を撃ちますが、流れ弾で関係の無い生徒も被害を受けます。百歩譲って、ロシア君とウクライナ君が二人だけで戦うならまだ分かりますが、教室の中からは誰も避難して出て行ってはいけないことになっています。ウクライナでは18~60歳の男性は基本的に国を出ることは禁止です。

10数年前に、平和主義の神学者であるジョン・ハワード・ヨーダーの「愛する人が襲われたら」という本を読みましたが、とても面白く考えさせられる内容でした。当時の私は、本のタイトルのように「愛する人が襲われたら」、男として戦うのが当たり前だと思っていました。

しかしヨーダーは理想論ではなく、とても現実的に論理的に分析をします。「愛する人が襲われた」時に戦うという選択をすると、相手よりも圧倒的に戦力的に上回っていなければ、愛する人も自分も傷付けられる可能性が高いと言います。確かにそうです。戦って無傷で済むことは有り得ません。

それよりも話し合いを選択した方が、自分には例えどんなに不利な結果であっても戦うよりも傷を負う可能性は低いという内容だったと記憶しています。

ウクライナが侵攻をされた時にどんなに不利な条件であったとしても即時に停戦をしていれば被害は最小限となったはずです。例え領土を取られたとしても、何十年後かに住民投票等で血を流すことなくウクライナへの編入を行って取り戻す可能性もあります。しかし一度失われた命は取り返せません。

正義とはロシアの横暴を正すことではなく、無実の人の命や生活を奪わないことです。神の正義が造り出すものは平和であって、争いではありません。神の正義をもたらすためにキリストがクリスマスにこの世にお生まれになられました。

そして人々の全ての罪を背負われてキリストは十字架に付かれました。それは全ての人の罪を赦し、平和をもたらすためです。キリストを受け入れ、聖霊の働きによって神の正義である平和をこの世にもたらす者とさせていただきましょう。

祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。この世は争いで満ちています。全ての人が聖霊の導きによって、自分の正義を主張するのではなく、神の正義である平和を求め、実現するものとさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。