「言葉は命」 

2024年8月4日礼拝式説教 
申命記 32章45~52節
        
主の御名を賛美します。

1、言葉は命
モーセはイスラエルのすべての人々にこれら、これまでの言葉をすべて語り終えました。45~47節で、「言葉」を5回使って強調しています。45節の言う言葉は32:1~43のモーセの歌の言葉であると思われます。そして彼らに、「あなたがたは、私が今日あなたがたに証言した言葉をすべて心に留め、子どもたちに命じてこれらの律法の言葉を守り行いなさい。」と言いました。

「今日」とは言っていますが、これは今日という一日を指しているのではなく、今日を含めて最近あなたがたに証言した言葉を指します。その言葉は律法の言葉も含みますので、32章のモーセの歌だけではなく、申命記全体の言葉を指します。申命記の原語のヘブル語の題名は、「言葉」です。

「証言した言葉」と訳されている「証言する」という言葉は、新改訳は「戒める」と訳していて、他にも「繰り返して語る」という意味があります。聖書の言葉は神が直接に語られた言葉もありますが、神から預かった言葉を預言者が「証言する」言葉であり、それらは「戒める」言葉であり、「繰り返して語る」言葉です。

聖書は同じような内容が繰り返して語られることが多くあります。そうしますと聖書から語られる説教も同じような内容が繰り返して語られることになります。それはなぜかと言いますと、聖書の内容は一度読んで、知識として知っていれば良いというものではないからです。

神の言葉を心に留めて、言葉が自分の血となり肉となり、自分の中に宿って、言葉を守り行うようになるためです。子ども礼拝では毎週、暗唱聖句を行っていますが、これは正にそのためです。神の言葉は空しい言葉ではありません。「空しい」というのは、「内容がない、空っぽ」という意味です。

主イエスはルカ13:7で、3年間、実を付けなかったいちじくの木を切り倒してしまえと言われました。
神は実を結ばない空っぽを好まれません。神の言葉はそのような、実を結ばない空っぽのものではありません。18節は、神は命を与えるお方と言い、40節は、とこしえに生きると言います。

聖書で言葉は、その言葉を発する人の人格の延長と考えます。ヨハネ1:1は、「言は神であった。」と言います。命を与え、とこしえに生きるお方の言葉は命そのものです。命である神の言葉を心に留める人の中で神の言葉は成長して行きます。マタイ13:1~9の種を蒔く人のたとえで、種である神の言葉は命がありますので、良い環境であれば必ず成長して実を結びます。

人間が自分の力を振り絞って実を結ぶのではありません。神の言葉は命がありますので、成長を妨げるものがなければ、自然に成長して実を結びます。もし実を結んでいないように感じることがあれば、実を結ぶことを妨げているものが何かを考えて取り除く必要があります。

この命の言葉によって、イスラエルはヨルダン川を渡って行って所有する、神が与えてくださる約束の土地で長く生きることができます。これは現代を生きるクリスチャンも同じです。救い主イエス・キリストを信じて救われるクリスチャンが祝福の中を長く生きるには、聖霊の導きに従って、命である言葉を心に留め、守り行う必要があります。

2、ネボ山に登る
同じ日に、主はモーセに、エリコの向かいのモアブの地にある、アバリム(かなたの地方の意味)山地のネボ山に登りなさいと告げられました。ネボ山は後ろの地図の3の4Gにあります。ネボ山は標高8百メートルです。

ここで不思議に思うことがあります。モーセはこのときに120歳で間もなく死を迎えます。いくら目はかすまず、気力もうせていなかったとは言え、死をまじかに控えた人がなぜ山に登る必要があるのでしょうか。平地で静かに死を迎えることはできないのでしょうか。

これはモーセだけではなくてアロンも同じで、アロンはホル山に登って死にました(民数記20:27、28)。山を登ることには、どのような意味があるのでしょうか。二つの意味が考えられます。一つ目は、山の頂は神が降り立たれ神と向き合う場所です。モーセは出エジプト記19章でシナイ山の頂に登り、十戒を含む律法を授かりました。

このことは神が私たちに、人生の終わりに近づいて来たときには特に、この世でのことを離れて神と向き合うことを求めておられます。これは単に物理的に山を登れば良いということではありません。山を登ってもこの世のことばかりに心を捕らわれていては意味がありません。

山を登ることの霊的な意味は、実際には山には登らなくて家にいても、神と向き合うことです。最近は高齢の登山者の事故が増えていますので、無理に山に登る必要ありません。

山に登ることの二つ目の意味は、主がイスラエルの人々に所有地として与えるカナンの地を見渡すことです。山を登る登山の醍醐味は頂上から景色を見渡すことです。頂上からですと景色を遮るものが少なくて遠くまで見渡すことができますので絶景です。頂上からはこれまで自分たちが歩んで来た道が見えて振り返ることもできますし、これから進んで行くカナンの地も見えて、これから進む道も分かります。茂原キリスト教会70周年の御言の、「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」(創世記16:8)をそこで見るためです。

それはイスラエルのためであり、モーセ自身のためでもあります。イスラエルの過去と将来を見渡したモーセは生涯の最後の言葉として、この後の33章の祝福の言葉を述べます。モーセは自分自身の過去と将来も見渡します。

将来として、あなたの兄アロンがホル山で死に、先祖の列に加えられたように、あなたも登って行く山で死に、先祖の列に加えられます。私たちが死を恐れる理由の一つは自分の知らない未知の世界であるからです。しかしそれは兄のアロンも通った道であり、先祖のすべてが通った道ですので心配は不要です。

今日の聖書箇所は前半の47節は言葉は命であることを語り、後半の50節では正反対の死を語っているのは対照的です。長く生きる永遠の命である神の言葉を持つ者は死を恐れる必要はありません。

3、モーセの過ち
最後の51、52節では、モーセの過去の振り返りとして、ここで死ぬ理由が、また語られます。これは民数記20:11で、主はモーセに岩に向かって水を出せと命じなさいと言われましたが、モーセは主の命令とは異なる、杖で岩を二度打つという方法を取って、主を聖としなかったことが原因です。

モーセが主の約束であるカナンの地を望み見るだけで行くことはできないことは肯定的にも否定的にも考えられます。肯定的な見方は、イスラエルはカナンの地に入ると直ぐに主を侮って偶像礼拝を行うので、モーセの役割と苦労はここまでで十分であるということです。
そしてこの後の役割はヨシュアに任せれば良いということです。神もそのようにお考えのように思えますし、実際そのような感じがします。確かに背景にはそのような事情は考えられます。しかしそうは言っても、51節の、「私に背き、・・・私を聖としなかったからである。」と52節の「そこに入って行くことはできない。」等を見ますと、どうしても肯定的というよりも否定的な感じを否めません。

モーセはこのことをどのように思っていたのでしょうか。3:25でモーセは主に、「どうか私を渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの地、美しい山、レバノン山を見せてください。」とヨルダン川を渡って行くことを強く願い出ました。しかし主からは、「二度と語ってはならない。ヨルダン川を渡ることができない。」と否定されています。

モーセはヨルダン川を渡って行くことを望んでいましたが、モーセ自身のためにも渡って行かない方が良いという全能の神の御判断はあったことと思います。しかしこのときはまだ救い主イエスが十字架に付いておられませんので、モーセが主を聖としなかった罪の赦しを得る方法が無かったということがあります。

その意味では、モーセがヨルダン川を渡って行けないことには、モーセは本当は渡って行きたいのだけれど行けないという否定的な感じがあります。しかし同時にそれもモーセがこれ以上の苦労をしないで済むということと、次のリーダーであるヨシュアがその役割を担うという肯定的な意味の両方があります。

モーセにとっては残念な部分もありますが、その意味でも現代は恵まれています。現代では、モーセのように主を聖としない罪を例え犯してしまったとしても、心から悔い改めるなら赦されるからです。それは私たちの罪の身代わりとして主イエスが既に十字架に付いておられるからです。

聖霊の導きに従って、神ご自身である神の言葉を心に留め、守り行う者とさせていただきましょう。そして言葉であり命である主イエスを受け入れて祝福の中を長く生きる者とさせていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは誰でも祝福の中を長く生きることを望むものです。そのために、聖霊の導きに従って、神ご自身である神の言葉を心に留め、命をいただいて、神の言葉を守り行う者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。