「目はかすまず、気力もうせず」

2024年9月15日礼拝式説教
申命記34章1~12節
        
主の御名を賛美します。最近は細かい文字が見え辛く苦労をしています。私にとって今日の中心聖句は少し躓きを覚えるものでした。気力は別としても、明らかに細かい文字が見え辛くなっていて、それは目がかすんでいるということでしょう。私より年上の多くの方も恐らく同じような感じではないでしょうか。

白内障の手術をしたから大丈夫という方もおられるでしょか。私はこのときのモーセの約半分の年齢ですが、目がかすんでいるという観点からすると私は聖書的ではないのでしょうか。最近は暑さも酷く、気力もうせがちだと感じる方もおられるかも知れません。そのようなことは聖書的ではないのでしょうか。とても気になる御言葉です。御言葉を聴かせていただきましょう。

1、目はかすまず
モーセは主から託されたイスラエルの人々に祝福の言葉を語り終えました。そして32:49で主から命じられた通りに、ネボ山に登りました(地図3カナンの分割4G)。そこから主はモーセにすべての地を示されました。初めにギルアド(ヨルダン川の東側、ラモト・ギルアド:5D)からダン(の領地、4B)まで。

ナフタリ(3B、C)のすべてと、エフライム(2F)とマナセ(東:5B、西:3E)の地、西の海(地中海)までのユダ(3H)の全土、ネゲブ(南の砂漠、1H)とツォアル(モアブの低地、4H)までのなつめやしの町エリコの地方です。

そして主はモーセに、「これが、アブラハム、イサク、ヤコブに対し、私があなたの子孫に与えると誓った地である。私はあなたの目に見せる。」と言われました。モーセはこのときに120歳でしたが、目はかすんでいませんでした。ではモーセは主が与えると誓った地を本当に見たのでしょうか。

物理的に考えますと地球は丸いので、今モーセがいるピスガの標高700mから見える距離は約百キロですので、せいぜいガリラヤ湖位までとなり、ダンは物理的には見えません。また山地の向こう側も肉眼では見えません。ではモーセは主が誓われた地を見えなかったのでしょうか。見ました。

それは主がモーセの目に見せたからです。そしてモーセの目はかすんでいなかったので見ることができました。モーセは主が誓われた地を肉眼で見たのではありません。
主がモーセの目に見せられたものをモーセは霊の目で見ました。モーセの肉眼はかすんでいたかも知れませんが、霊の目はかすんでいなかったということです。

モーセは31:2で、「もはや思うように出入りすることができない。」と告白しています。若しかしますと、肉体的にはモーセの肉眼はかすみ、耳は遠くなり、新しいこと等に取組む気力はうせていたのかも知れません。

しかし聖霊の働きによって、霊的な目はかすまず、御声を聴く耳は衰えず、御心を行う気力はうせていなかったという意味だと思います。私たちの肉体は衰えて行くかも知れませんが、霊的には増々、成長をする者でありたいと願います。

2、モーセの葬り
モーセは主の誓われた地に渡って行くことはできないという御言葉のとおりに、モアブの地で死にました。主はベト・ペオル(4G)の向かい側にあるモアブの地の谷にモーセを葬られました。これは何気の無い文章に見えますが、主がモーセを葬られたというのは驚くべきことです。

しかし、今日に至るまで、誰もモーセの葬られた場所を知りません。モーセ程の超有名人の葬られた場所がなぜ知られていないのかと不思議に感じます。しかしその答えは書かれています。主が葬られたからです。主が葬られたので、他の人はその場所を知りません。

主がモーセを葬られた理由は二つ考えられます。一つはエジプトからの脱出からエリコの手前までイスラエルの民を導いたモーセの労に報いるために主ご自身が葬られたことです。もう一つは、モーセ程の有名人の墓の場所が知られてしまうと、その墓が偶像化される可能性がありますので、偶像礼拝を避けるためと考えられます。

イスラエルの人々はモアブの平野で三十日間、モーセのために泣いて、泣く喪の期間を終えました。イスラエルはモーセのお兄さんのアロンが亡くなったときにも三十日間、喪に服しましたので当時の習慣だったようです。喪に服すことが余り形式的になってしまうのはどうかとも思います。

しかし、きちんと喪に服して故人を偲び、涙を流して泣き悲しむことは大切なことです。泣き悲しむことによって、心は初めて次の段階に進んで行くことができます。身体を怪我したときには休養を取りリハビリが必要なように、心が傷付いたときにも同じようにする必要があります。

3、ヨシュア
モーセの後継者であるヌンの子ヨシュアは、知恵の霊に満ちていました。モーセがヨシュアの上に両手を置いたからです。モーセが両手を置くとそうなるのかと思ってしまいそうですが、モーセが両手を置けば誰でも必ずしもそのようになるという訳ではありません。

ヨシュアは民数記27:18で主が選ばれて、モーセにイスラエルの人々の前で手を置くように命じられました。モーセが主が命じられたとおりに行ったのでヨシュアは主の霊に満ちました。イスラエルの人々はヨシュアに従い、主がモーセに命じられたとおりに行いました。順調なスタートです。

4、しるしと奇跡と恐るべき業
イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れませんでした。モーセは主が顔と顔を合わせて選び出されましたが、それには二つの目的がありました。一つ目は、モーセをエジプトの地に遣わして、ファラオとそのすべての家臣、およびその全土に対して、あらゆるしるしと奇跡を行うためです。

しるしと奇跡はエジプトに下された10の災いを中心としたものです。それはイスラエルを罪の象徴であるエジプトから救うためです。モーセはイスラエルを救うために敵であるエジプトのファラオとすべての家臣と全土に対してしるしと奇跡を行いました。

二つ目は、モーセがイスラエルのすべての人々の目の前で、力強い手と大いなる恐るべき業を行うためです。一つ目は敵に災いを降してイスラエルを救い出すために行われたのに対して、二つ目は自分の民に信頼させて従わせるためです。モーセの業はイスラエルの救いと荒れ野を導くという大きな主の計画のために主が行わせたものです。

そこでモーセが行ったのだから、同じ業を現代でも行えるという考えはおかしいことが分かります。主の計画の無いところに主の御業は行われません。ただモーセをとおしてエジプトに災いが降されたときにも、初めの方の災いは魔術師も秘術を用いて同じことをしていましたので見極める注意が必要です。

旧約聖書の時代にはモーセのようなしるしと奇跡と恐るべき業を行う預言者は現れませんでした。しかし新約の時代に入ると、モーセのように敵から人々を救うために、しるしと奇跡を行い、人々を従わせて主の約束の地へと導くために大いなる恐るべき業を行う預言者が現れました。
救い主イエス・キリストです。主イエスは、モーセが罪の象徴であるエジプトからイスラエルを救い出すために10の災いを降したように、人々の罪の身代わりとして十字架に付かれて、信じる者の罪を赦し罪から救われます。そしてその十字架の死からの復活という奇跡によって、信じる者に復活の命、永遠の命を与えられます。

モーセのように、人々を救い導くために、十字架の死からの復活という、しるしと奇跡と恐るべき業を行うという意味で、主イエスは第二のモーセと呼ばれます。主の御業は主ご自身が行われるだけではありません。主を信じる者も同じ御業に与らせていただけます。

霊的な目はかすまず、気力もうせないのは、私たちがこの世で味わわせていただける恵みです。肉体的には年齢と共に弱い部分が出て来るところがあるかも知れません。しかしそこには神癒も働きます。信仰的に神との関係が良くなることによって、肉体的にも健全になることです。

肉体的な健康も大切ではありますが、より大切なのは霊的な健康です。モーセのように例え百二十歳になったとしても、霊的に、目はかすまず、気力もうせないでいたいものです。主を信じ、聖霊の導きに従うことによって、その恵みに与ることができます。

そしてそれは自分自身のためではありません。人々を救い、正しく導く主の御計画のためです。聖霊の導きに従い、主の御計画に用いられるときに、主の御業に与る者とされます。主の御業に与り、主の栄光を現す者とさせていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは誰でもモーセのように長生きをし、また健康でありたいと願うものです。モーセは主の導きに従い、その存在をとおして主の御業を現しました。私たちも自分のためではなく、聖霊の導きに従って、主の御業を現す者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。