「 父 と 子 」

2024年9月22日礼拝式説教
ヨハネによる福音書5章15~23節                                           野田栄美

中心聖句:ヨハネによる福音書5章17節
「イエスはお答えになった。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」

① 始めに
英国はガーデニングで有名な国です。ロンドンで行われるチェルシーフラワーショウは、世界的に有名なガーデニングショウです。でも実は、日本庭園は、世界のガーデナーに知られている素晴らしい技術を持っています。素晴らしい日本庭園を作り上げるために、師匠と弟子は共に働きます。その姿は、今日の聖書箇所に書かれている父と子の姿と似ているように思いました。一つの目的のために、働き続けておられる父と子の姿を見ていきましょう。

② 奇跡への反応
このヨハネの5章は、38年間も病を患っていた人を、主イエスがその言葉によって癒やされた奇跡の場面を伝えています。長い間癒えることのなかった人が、言葉だけで完全に治ってしまうなど、この世界ではあり得ないことです。そのような奇蹟を見た時、人の手を超えた偉大な力が働いたと考えるのが普通です。

けれども、ここで「ユダヤ人」と言われる人たちは、その偉大な力には目も留めず、人を癒やすことは「仕事」だ。仕事は安息日にしてはならないと律法に書いてあると、主イエスを非難しました。そして、16節「イエスを迫害し始め」ました。その彼らに、主イエスが17節で「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」と答えられると、神を自分の父としたとして、「ますますイエスを殺そうと付け狙うように」なりました。彼らは、人知を超えた奇跡を見て、神が共におられる人だと信じるどころか、奇蹟を行った方を殺そうと計画し始めました。

③ 父と子
 人が自分を責めてきた時、私たちはどうするでしょうか。多くの場合、防御に回ると思います。自分の発言が正しいと言い返し防御したり、反対にこれ以上相手を逆なでしないように、そこを去ったりします。しかし、主イエスは、そうされませんでした。彼らが殺意を抱くきっかけになった、神と自分との関係を、更に丁寧に話し続けられました。それは、自分を守る以上に、伝えなくてはならない大切なことがあったからです。

主イエスは先ず、「よくよく言っておく」と言われました。新改訳聖書では「まことに、まことに、あなたがたに言います。」と訳されています。これから言うことはとても重要な真理だと示す、前置きです。

続けて主イエスは、19c節「子は父がなさることを見なければ、自分からは何もすることができない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする。」と言われました。自分からは何もできず、すべて真似をするとは、まるで、自分がない人のように思われる言葉です。更に、22節には、父なる神について「また、父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる。」と書かれています。ここでも、裁きを子どもに丸投げしているような父の姿があります。この親子の姿をどのように理解したら良いでしょうか。

④ 人の幸せのために
ここに書かれている父と子の姿を理解するには、神の親子が何を願っておられるのか、その目的から始めなくてはなりません。人間の親子は、互いを大切に思って、相手を幸せにするために助け合います。けれども、父なる神と主イエスは、ご自分たちのためにではなく、私たち人間の幸せのために自分たちか犠牲になることを選んでくださっています。

聖書で言う人間の幸せとは、人が罪から解放されることです。そのためにどんな犠牲も厭わないのが、父なる神と主イエスです。19d節「父がなさることは何でも、子もそのとおりにする」とおっしゃいました。「父がなさる」ことは、何でしょうか。それは、人を罪から救うために働いておられるとことです。それを、主イエスはご覧になって、ご自身も人を罪から救うために働かれます。何もできない子がただの父親の真似をしているのではなく、同じ目的のために心を合わせて父と子が働かれている姿がここにあります。

20節には「父は子を愛して、ご自分のなさることをすべてに示されるからである。」とあります。人の幸せを願う父は、同じ思いをもって人のために働く息子を、どんなに愛されたかと思います。「お父さんなぜ私の幸せを願ってくださらないのですか」と、主イエスは言われませんでした。むしろ、「私も父の願いのために働きます。どんな犠牲を払ってもかまいません」と、主イエスはおっしゃいました。

その息子に父は、人を救うためのすべてのことを隠すことなく示されました。ギリシャ語では、「愛」を意味する言葉が複数あります。その中で、神の完全な愛を表す「アガペー」は、ここで使われていません。ここでは、肉親の家族同士の愛に使う「フィレオ-」という言葉が使われています。父なる神と主イエスは、父と子という関係にあることを、ここでは話しているからです。

⑤  人の父子
人間の父と息子であったら、このようなことがあるでしょうか。父の願いと子の願いが完全に一致するのは難しいことです。それぞれが、自分のことを考えるからです。父の仕事を子どもが継ぐことはあります。しかし、親のしていた通りにすることは、なかなかありません。自分の考えで動いていくからです。

また、子どもを大切に思っていても、自分がしていることをすべて見せたいと父親が思うでしょうか。自分の欠点、弱さ、また、罪というのを見せたくないものです。自分を守る心も働きます。また、見せるべきでないこともあります。それらは子どもが身につけて欲しくないことです。親のしていることをすべてその通りにされたら、とても困ったことになるのが人間です。

子どもも、親がやっていることをそのままやりたいとは思わないことが多いのではないでしょうか。自分のやりたいようにやりたい、自己中心的な思いもあるでしょう。また、あのようにはなりたくないと思うことも一つや二つあるのが、人間です。聖書は人間には罪があると言いますが、その罪がある以上、親も自分の思いを完全に手放すことができません。そのため愛も不完全になります。また、子どもも自分の思いがありますから、服従も不完全になります。
この不完全な人間を罪から救うために、父なる神と主イエスが完全な一致を持ってくださいました。自分を犠牲にできない人間を愛して、神の親子自ら、犠牲を払ってくださっています。

⑥ 裁きの委任
22、23節には、「また、父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる。すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。」とあります。組織において、最終判断を下すのは誰でしょうか。最高権威を持った者です。その権威は他の人が奪ってはいけないものです。けれども、父なる神は、この最終判断をする権威をすべて主イエスに委ねたと、ここに書かれています。

どんなことでも、権威を引き継ぐ時には、様々なことが起こります。権威を持っている者にとって、自分がやってきたことを手放すのは、なかなか受け入れられない、とても難しいことです。長年勤めてきた仕事を引退したときに、得も言われぬ喪失感を感じた体験をした人もいらっしゃるかもしれません。自営業であれば、子どもに仕事を引き継がせた後も、気が気でなく関わり続けるということもあると聞きます。自分の手にあったものを手放すのは、それが大切なことであればある程、本当に難しいことです。

けれども、父なる神は、その裁きの権威をすべて主イエスに委ねられました。その理由は、23節「すべての人が、父を敬うように、子を敬うためである。」とあります。そこに、自分の手にあるものを、渡したくないという、ご自身のことを考える姿は全く見られません。ただ、息子にすべてを献げています。

そして、23節で続けて、「子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。」と言います。父が裁きを委ねるほど、心から信頼し、愛している子を敬わないことは、父を敬わないことと同じだと言っています。「この子を敬いなさい」、「主イエスがしていることをしっかりと見なさい」、「そこにはっきりと、人を愛し、そのために自分を犠牲にしている姿が見えるはずだ」と、父なる神は、語りかけておられます。

⑦ 復活のみ業
   この父と子が、ご自身をあくまで犠牲にして成し遂げたかったことを、ここで行われた奇跡から見てみましょう。長年病に苦しんでいる人に目を留め、「良くなりたいか」と声を掛け、癒やし、「もう罪を犯さないでいなさい」と天国へと招いてくださった。これがここで行われた奇跡です。父なる神と主イエスは、すべての人に罪の苦しみから解き放たれて、天国に入って欲しいと働いておられることが分かります。

20節後半から21節には、「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたがたは驚くことになる。父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、自分の望む者に命を与える。」とあります。長く病気で苦しんでいた人を癒す奇蹟よりも、大きな奇蹟がこれから行われる。その大きな業とは、父なる神が死者を復活させて命をお与えになる奇蹟です。これは、主イエスが十字架で亡くなられた時に、父なる神が主イエスを死から復活させて、永遠の命を与えられることを示しています。

それは、主イエスの復活だけで終わらず、今度は、主イエスが人に永遠の命を与えてくださいます。この永遠の命こそが、人を天国へと導く命です。父と子が、人に与えたいと願っているものがこの命です。

⑧ 今も働かれる方
17節で「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」と主イエスは言われました。今、この時も、父なる神と主イエスはこの永遠の命を、人に与えるために働いておられます。

あるガーデンデザイナーの方がこう言っていました。人が庭を見て「あっ、この庭素敵だな」という印象を持つと、その後、良いところを探し始める。逆に、「この庭はあんまり好きじゃないな」と思うと、悪いところを探し始めるそうです。庭自体は、同じでも人の心のありようが、物の見方に色眼鏡をかけてしまうというのです。

主イエスの行われた奇跡を見て、安息日に仕事を行うとは律法違反だといって、あら探しをするのか、これこそ神が共におられる方だと信じるのか、それは私たちの選択です。人を罪から救うために、自分をあくまでも犠牲にして働かれておられる父なる神と主イエスの姿を、もう一度心に留めましょう。その自己犠牲の姿を受け取りましょう。あなたに永遠の命を与えたい、神と共に生きて欲しいと父なる神と主イエスは、今も働き続けておられます。