「聖霊の洗礼」

2024年9月29日礼拝式説教  
マルコによる福音書1章1~13節
        
主の御名を賛美します。礼拝説教の聖書で申命記が終わり、私の中の順番的には次はガラテヤの信徒への手紙でしたが、福音書を希望する声を耳にし、私も久し振りに福音書の思いが与えられました。福音書の中では順番的にマルコによる福音書になることと、マルコによる福音書が一番コンパクトであることから今回選ばせていただきました。ただ都合により次週だけはルカによる福音書になります。

1、マルコ
福音書は4人が書いており、マタイとヨハネは主イエスの12弟子で、マタイは元徴税人、ヨハネは元漁師、またルカは医者と割と知られています。マルコによる福音書にはマルコが書いたとは書かれていません。マルコとは誰かと思われるかも知れません。日本で一番有名なマルコは、ちびまる子ちゃんでしょうか。

聖書のマルコは英語読みではマークで男です。マルコの名前で有名な人は東方見聞録を口述したマルコ・ポーロでしょうか。この福音書を書いたマルコは、バルナバのいとこでペトロの通訳と言われます。また福音書の中では一番初めに書かれたと言われます。

2、神の子イエス・キリストの福音の初め
初めに表題のように、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」とあります。この「初め」が何を指すのかは色々な説があり、小見出しで区切られた8節迄のヨハネの活動であるのか、今日の聖書箇所の13節迄か、序文の15節迄か、この福音書全体を指すのか等です。

「初め」が原文では初めの言葉であり、旧約聖書では初めの言葉が、その書全体の表題になっていることや内容から考えますと、「神の子イエス・キリストの福音の初め。」がこの福音書の表題のように思います。マルコは福音書の内容を福音そのものに絞っているようです。

3、ヨハネ
旧約聖書の時代が終わってから約4百年が経ち、その間には預言者が現れず、ユダヤの人々はモーセのような預言者が現れることを期待していました。イザヤ40:3に預言があります。主が来られる前に使者が遣わされて、主の道を整えて備え、道筋をまっすぐにします。

私は今は見ませんが子どもの頃に時代劇をよく見ていました。その中で、役職の高い人が通るときには、「~様の、おなーりー」と叫ぶ人がいて、民衆は道の左右に真っ直ぐに並んで土下座をしていて、そこを役職の高い人が通って行く場面がありました。そのようなイメージでしょうか。

そのとおりに、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。荒れ野は何もないところで悔い改めに相応しい場所なのでしょう。ユダヤ人にとって荒れ野は、自分たちの先祖がエジプトを脱出した後に40年間、彷徨ったところです。

現代でもユダヤ人は仮庵の祭りのときに荒れ野に行って、そのことに思いを巡らして過ごす人もいるようです。ユダヤ人にとって荒れ野は身近にある心の古里のようです。日本人にとってそのような場所はどこなのでしょうか。地域や人によって違いはあると思います。

私の出身の横須賀では歌手の渡辺真知子さんの「かもめが翔んだ日」の歌の歌詞に、「人はどうして哀しくなると海をみつめにくるのでしょうか」のように、海をみつめにくることがあるようです。それは地域によっては、山や川、湖かも知れませんし、教会かも知れません。自分の部屋でも良いですし、どこか自分をみつめ直し思いを巡らす自分の特別な場所があると良いかも知れません。

そこで、ユダヤの全地方とエルサレムの全住民は、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。預言者の現れない4百年間の暗黒の時代を経て、やっと預言者が現れたので大きな期待があったようです。自分の罪も自覚していました。

5節を見ますと几帳面な人は、文字どおりにユダヤ全地方の全員が罪を告白して洗礼を受けたと思われるかも知れません。しかしこれはとても多くの人がそのようにしたことを強調する文章です。他の福音書にありますように、自分たちを正しいとする律法学者やファリサイ派、サドカイ派の人々がヨハネに罪を告白し、洗礼を受けることはありません。

ヨハネは、らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締めて、ばったと野蜜を食べていました。古い話ですが、すぎちゃんの、「ワイルドだろぉ」という言葉を思い出します。ただ、ばったと野蜜は当時の遊牧民の普通の食物のようです。

服装は預言者エリヤと同じですが(列王記下1:8)、毛衣を着るのは預言者の一般的な服装でした(ゼカリヤ13:4)。2、3節の預言もあり、律法学者は救い主の前に預言者エリヤが来るはずだと言っていましたので(9:11)、ヨハネはエリヤの再来のように考えられたようです。

民衆はメシア(救い主)を待ち望んでいて、ヨハネをメシアと考えていました(ルカ3:15)。そこでヨハネは自分の役割を正しく人々に伝えるために、「私よりも力のある方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。」と説明します。

履物のひもを解くのは奴隷の役割ですが、ヨハネは自分は救い主に対して奴隷の役割の値打ちもないと、とても謙遜的です。ヨハネは救い主は自分よりも力があると言いますが、それはどのような力なのでしょうか。

4、聖霊の洗礼
ヨハネは、私は水であなたがたに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになると言います。ヨハネの水の洗礼と主イエスの聖霊の洗礼の違いはどのようなものなのでしょうか。ヨハネが水で授ける洗礼は4節で、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」と言います。

これは日本語的に少し分かり難い表現です。ヨハネの悔い改めの洗礼を受けると罪の赦しを得ることが出来るのでしょうか。日本語的には、「罪の赦しを得させるための」ですから罪の赦し得られるような感じがします。しかし原語では「罪の赦しにいたる」と書いていて、新改訳は「罪の赦しに導く」と訳しています。

ヨハネの洗礼は、罪の赦しに導くものであり、最終的には罪の赦しにいたるものですが、ヨハネの洗礼自体で罪の赦しを得られるものではありません。ただ何事においてもそうですが、一足飛びに行うことは効率的ではありません。段階を経て行く必要がありあます。

信仰の学びや伝道においては良く、神、罪、救いの順で、その内容を知る必要があると言われます。ユダヤ人は神については良く知っているはずです。そうしますと救いの前の準備段階として、罪について扱う必要があります。ヨハネは主イエスによる救いの道を備えるために遣わされた使者です。

ヨハネは罪を悔い改めることを宣べ伝えました。そして悔い改めたことを表明する儀式として洗礼を受けます。水で清める儀式はレビ14:8や15章にありますので、ユダヤ人にとって洗礼はある意味で馴染みのある儀式です。ただレビ記の清めの儀式は汚れを清める度に何度も行っていましたが、ヨハネの洗礼は一度だけです。

主イエスの授けられる洗礼は聖霊の洗礼です。聖霊の洗礼ですので、洗礼を授けられるときに聖霊が与えられ、自分の力ではなく聖霊の力によって生きる者とされます。ヨハネの言う力のある方というのは、聖霊を与える力のある方という意味でもあります。

現代のキリスト教会で行われます洗礼は、水によって行われると共に、三位一体の神の名によって行われますので、ヨハネの洗礼と主イエスの洗礼を合わせた洗礼です。洗礼によって聖霊が授けられます。授けられた聖霊は洗礼を受けた人にずっと留まり続けてくださるのでしょうか。

基本的には留まり続けてくださいます。しかしそれには一つ条件があります。それは罪を悔い改め続けることです。旧約聖書を見ましても、神によって選ばれたサウル王、ダビデ王、サムソン等も神の霊である聖霊が共におられますが、罪を犯し悔い改めないと、聖霊は離れて行ってしまいます。

東京聖書学院の出張講座で来て下さった安井聖先生が、礼拝は悔い改めと献身を行う場であると言われました。毎週の礼拝で悔い改めと献身を新たにすることによって聖霊に満たされ続けます。礼拝の出席期間が長く、信仰生活が深められている人は、毎週の礼拝で悔い改めと献身を新たにして聖霊に満たされ続けているからです。

折角、日曜日の朝に礼拝に出席しているのですから、ぜひ悔い改めと献身を新たにして聖霊に満たされ続けて信仰を深めて行っていただきたいと祈ります。

5、主イエスの受洗
主イエスの受洗の記事はマタイによる福音書に比べて短いです。マタイは主イエスの弟子であり、また主イエスのストーリー全体を書いているようです。それに対してマルコは初めにお話ししましたが、説明は省いて福音そのものの内容に絞って書いているようです。

主イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられました。主イエスは神の子ですから、罪の赦しを得るための悔い改めの洗礼という意味では受ける必要はありません。主イエスはヨハネの洗礼が正しいものであるという証しのためと、私たち人間が行うべき正しい手本として洗礼を受けられたようです(マタイ3:15)。

その正しさを証明するように、水から上がっているとき、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分の中へ降って来るのを御覧になりました。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえました。これは主イエスの洗礼のときのことだけではありません。

主イエスを私たちが信じて洗礼を受けるときには、霊が鳩のように降って来るのは見えないかも知れません。しかし同じように聖霊が降られます。そして神の御子である主イエスとは違いますが、天の父なる神は私たちにも、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と語ってくださいます。

私たちは、父なる神、子なる主イエス、聖霊が三位一体であるということが分かり難いものです。ここは三位一体の神が同時におられる大切な場面ですので、ぜひ覚えておきたいものです。

6、荒れ野の試み
それからすぐに、霊は主イエスを荒れ野に追いやりました。主イエスを荒れ野に追いやられたのは聖霊です。主イエスは父なる神の御心と聖霊の導きに完全に服従をされて荒れ野にも行かれます。荒れ野は水も食物も無い上に野獣がいる、命の危険に晒される場所ですが、主イエスはそこに40日間おられて、サタンの試みを受けられました。

これはイスラエルがエジプトを脱出した後に荒れ野を40年間放浪したことと関わります。イスラエルは罪の象徴であるエジプトを脱出して救われて、洗礼の象徴である紅海の中を通りました。しかし荒れ野の試みでは、神の言葉に従うことができずに40年間放浪を続けることになってしまいました。

これはイスラエルだけの問題ではありません。現代を生きる私たちも主イエスを信じて洗礼を受ける後にも、この世の人生という荒れ野の試みを受けます。そのときにどうすれば良いのかその良い手本を主イエスが見せてくださいました。それは聖霊の導きに従って、神の言である聖書の御言のとおりに行うことです。

そのようにするなら野獣が共にいても大丈夫です。天使が主イエスに仕えていたように私たちにも仕えて守ってくれます。荒れ野の中にも主の恵みが溢れています。神は2千年前に御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださり、十字架により信じる者の罪を赦し、御心に従えるように聖霊を授けてくださいます。この大きな恵みを感謝して受け取り歩ませていただきましょう。

7、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。旧約の時代には神の御心は知らされていましたが、それを実行する力は人間にはありませんでした。しかし2年年前に主イエスが全ての人の罪のために十字架に付かれ、信じる者に聖霊を授けてくださいますから有難うございます。毎週の礼拝の中で、悔い改めと献身を新たにして、聖霊の力によって御心を行い祝福の道を歩む者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。