「罪赦された者の愛」

2024年10月6日礼拝式説教 
ルカによる福音書7章36~50節

        
主の御名を賛美します。

1、罪深い女
今朝の聖書箇所はあるファリサイ派の人が主イエスと一緒に食事をしたいと願って招いた場面です。私たちはファリサイ派や律法学者と聞きますと、どうせ主イエスに反対していて、何かろくでもない魂胆を持って主イエスを招いたのだろうと考えてしまいます。

しかし主イエスがファリサイ派に人に食事に招かれることは他の個所でもあり(11:37、14:1)、主イエスがどのように人であるのかに興味を持っているファリサイ派の人もいました。そこに、この町の罪深い女が主イエスがおられることを知って入って来ました。

この後の8章にマグダラのマリアが続くことや、この聖書記事とヨハネ12:1~8でナルドの香油を注いだべタニアのマリアの記事が似ているので、この女はマリアではないかと言われることもありますが、他の人物と考えられています。この女が何の罪を犯したのかは分かりませんが、町中の人が皆それを知っています。恐らく娼婦であったと言われています。

パレスチナの地域では客のいる家に他人が勝手に入るのは普通なことのようです。この女は主イエスの背後に立ち、主イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗りました。その光景を見ていた人たちはどのように思ったでしょうか。

おぞましい光景と思ったことでしょう。ところでこの女はなぜこのようなことをしたのでしょうか。私は以前から不思議に思っていました。初めから主イエスの足を自分の涙でぬらすことを計画していたのでしょうか。そうは思えません。香油の入った石膏の壺を持って来ていますので、香油を塗ることは考えていました。

当時の履物はサンダルのような物で、道は舗装されていませんので、道を歩くと足は泥だらけになります。そのために家に入るときには水が出されて足を洗います。この女は主イエスを招いたファリサイ派の人が、客である主イエスに足を洗う水を出して綺麗になっていると思っていて、自分はただ香油を塗ろうと思っていたのだと思います。

しかしこの女の目の前には、足を洗う水を出されずに泥だらけになって汚れた主イエスの足がありました。その泥だらけの汚れた主イエスの足を見て、罪に塗れて汚れた自分の姿が重なって見えたのではないでしょうか。そこには自分の汚れを見せられているようで強い悔改めの思いがありました。
しかしそれと共に主イエスは22節にありますように、そのような汚れを清めて、救ってくださるお方であることを知り感謝をしていました。女の涙は悔改めと感謝の涙だったのではないでしょうか。女の悔改めと感謝の涙は、主イエスの足の汚れを溶かします。

この女が初めから自分の涙で主イエスの足をぬらすつもりであったのなら、主イエスが弟子の足を洗うときに用意されたように手拭いを用意していたことでしょう。しかし女には予想外のことであり、何も用意がありませんでした。しかしそこには自分の髪の毛があります。

女は献身の思いで自分の髪の毛によって涙で濡れた泥を拭き取ります。主イエスの足を清めるためなら、自分の髪の毛は汚れても喜んで献げました。そして綺麗になった足に愛を込めて接吻して香油を塗りました。

2、シモン
しかし主イエスを招いたファリサイ派の人はこれを見て、主イエスが預言者なら、この女が罪深いことを見抜いて、自分に触れさせるようなことはさせないはずだと思いました。その思いを知った主イエスは、その人に、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われました。

36~39節では、「ファリサイ派の人」と3回書かれていて、実際、ファリサイ派の人のように行動し考えます。しかしここで主イエスはここで、「シモン」と呼びかけられます。シモンの名前は、「シメオン」の短縮形で意味は、「聞く」です。

主イエスが、「シモン」と呼びかけられたことは、「シモン、あなたは聞く者だ」という意味です。そしてここから主イエスはシモンに、「あなた」と親しく6回話し掛けられます。それに対してシモンは、「先生、お話しください」と言ったことは、ファリサイ派の人からシモン(聞く)になって聞く者になったということです。

そこで主イエスは41、42節の短い譬え話を語られます。今日の聖書箇所は中心構造となっていまして、大切な中心はこの譬え話になります。ある金貸しから、二人の人が金を借りていて、一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンです。

一デナリオンは農業労働者の一日の賃金ですので一万円とすると、借金は五百万円と五十万円となります。ところが返すことができなかったので、金貸しは二人の借金を帳消しにしてやりました。五十万円という金額だけから考えますと何とかすれば返せなくもないような気もしますが。

主イエスはこの譬えでシモンに何を語ろうとされているのでしょうか。シモンは自分は正しい人で、この女は罪深い者で正反対の存在と考えていました。しかし全ての人は例え五百デナリオンと五十デナリオンの違いはあったとしても、同じように自分では神に対して返すことのできない借金があり、帳消しにしていただく必要があるということです。その意味ではシモンもこの女も同じ存在です。

「二人のうち、どちらが多く借金を帳消しにした金貸しを愛するだろうか」と問われたシモンは、帳消しにしてもらった額の多いほうだと思います」と答えました。主イエスは、「あなたの判断は正しい」と言われました。

3、罪赦された者の愛
主イエスは女の方を振り向いて、シモンに言われました。初めに、「この人を見ないか。」と言われます。シモンは39節でこの女を見ましたが、それは先入観による見方であり正しくないということです。
続いて、「私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この人は私の足をぬらし、髪の毛で拭ってくれた。」と言われます。

客に足を洗う水を出すのは礼儀かもしれませんが、しなくてはならない義務ではありません。ただ問題は、「そこに愛はあるんか。」という問いです。シモンは水の用意もしませんでしたが、女は自分の髪の毛を汚してまでして主イエスの足を綺麗にしました。

接吻は親愛を現す挨拶ですが、シモンは主イエスの頬への接吻もしませんでしたが、女は主イエスの足に接吻を続け、感謝と謙遜を現します。シモンは主イエスの頭に普通の油さえ塗りませんでしたが、女は足に高価な香油を塗りました。

これは私の読み込み過ぎかも知れませんが、女は涙で主イエスの足をぬらし髪の毛で泥を拭いましたが、この後に主イエスは十字架に付かれて、女の行い対応されるように、ご自身の血によってこの女の罪も拭い取られます。そして女が香油を塗ってくれたことに対応するように、油が象徴する聖霊を注がれます。

更に、「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」と言われます。罪を赦されることに多い、少ないがあるのかという感じもしますが、これは自分の罪が赦されることをどの位の大きさと捉えているのかということだと思います。

先日、召された教会員は本当に大きな愛を多くの人に示す人でした。教会の記念誌等を読みますと、実際に多くの罪を犯していて赦されたというよりも、多くの罪を赦されたと本人が感じておられたのだと思います。そして、「この最も小さい者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。」(マタイ25:40)の御言のとおりに多くの人に愛を示していたように思います。

主イエスは女に、「あなたの罪は赦された。」と言われました。これは考えさせられる文章です。この女はいつの時点で、どのような理由で、罪を赦されたのでしょうか。47節で、「罪を赦されたことは、主イエスに示した愛の大きさで分かる。」と言われていますので、主イエスに愛を示した38節の時点ではもう既に赦されているはずです。
これは恐らく21、22節の話をこの女も聞いていて主イエスを信じていたはずです。だからこそ罪を赦されて、その結果として主イエスに大きな愛を示すことができたのでしょう。48節で、「あなたの罪は赦された。」と言われたのは、町中の人は罪深い女と思っていましたが、それは間違いで、この女の罪は赦されているという宣言です。この女の罪の赦しのためにも、主イエスは後で十字架に付かれます。

同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、一体何者だろう」と考え始めました。シモンも、「この人は、一体何者だろう」と考えて食事に招いたはずです。またシモンは39節で、この女が誰で、どんな素性の者か分かっていたつもりでいましたが、それは誤りでした。

すべての人は、罪まで赦す主イエスは一体何者だろうと考える必要があります。そして主イエスを信じる者は罪を赦されて大きな愛を示すようになります。私たちも自分の愛によって自分の救いを確認する必要があります。

主イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われました。これもまた考えさせられる文章です。日本語で信仰といいますと、人間が何かを信じることのように思います。しかし聖書の「信仰」という言葉はギリシャ語で「ピスティス」と書かれていて、人間が主語のときには「信仰」と訳され、神が主語のときには「真実」と訳されます。

人間が救われるのは人間が何かを信じたからという人間の功績によるのではありません。あくまでも神の真実により救いの道が開かれて、聖霊によって導かれます。人間はただその導きに従うだけで何の功績もありません。救いはただ神の真実によるものです。

町中の人から罪深い女と言われていて、周りの目を気にして不安の中にいた女は、主イエスにより罪を赦され、救われて、「安心して行きなさい。」と言って送り出されます。この後の8章には、主イエスに仕える女たち、種を蒔く人のたとえ等、送り出されて遣わされる人たちの記事となります。私たちも神の真実により救いに与り、罪の赦しによって安心してこの世に遣わされ愛を示す者とさせていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。町中から罪深い女と呼ばれていた者が、主イエスを信じて罪を赦され、大きな愛を示す者とされました。私たちは主イエスを知りながらも愛に貧しい者です。主イエスの十字架によって罪を赦される神の真実の大きな恵みによって、愛の豊かな者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。