「清めを望まれる主イエス」
2024年11月17日礼拝式説教
マルコによる福音書1章40~45節
主の御名を賛美します。
1、清めを願う男
さて、規定の病を患っている人がいました。規定の病は聖書を知っている人には分かるものですが、聖書をあまりよく知らない人には分かり難いものです。この病は以前は「らい病」と訳されていましたが、らい病は差別的な時代に使われていたことから、らい病はハンセン病と呼ばれるようになりました。
しかし聖書のこの病はハンセン病だけではなく他の病も含むと考えられていますので、聖書協会共同訳では「規定の病」と訳して、新改訳はこの病のヘブル語名の「ツァラアト」と表記しています。この病は当時は治療方法がなく、伝染もするために恐れられていて、患者は宿営の外に隔離されていました(レビ13:46)。
現代でもコロナに感染すると隔離をしたように仕方がない部分もあります。患者は他の人が近づかないように、「汚れている。汚れている」と叫ばなければなりませんでした(レビ13:45)。ヘブル語のツァラアトは、「打たれた者」という意味で、神の罰として打たれた者という意味を含んでしました。
病状の恐ろしさからそのように考えられたようです。ただ実際は単なる病です。しかしこの病は単なる医学的な病に留まらずに、宗教的に汚れていると見なされるものでした。患者は病だけでも苦しむ上に、更にそれは神に打たれて汚れていると見られて、二重の苦しみがありました。
その規定の病を患っている人が、主イエスのところに来ました。これは驚くべきことです。並行記事のマタイやルカの福音書を見ますと、この患者は町中にいる主イエスのところに来たようです。これは明らかにレビ13:46の、「その人は宿営の外で独り離れて住まなければならない。」の規定に反することです。
この人は彼と呼ばれていますので男です。周りの人からは見捨てられたような存在でした。しかし34節で主イエスが、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちを癒やし、多くの悪霊を追い出した話を聞いて、例えどんなことをしてでも主イエスの元に行きたいと願ったのでしょう。
男は主イエスのところに来て、ひざまずいて願いました。とても謙った姿勢です。そして、「お望みならば、私を清くすることがおできになります」と言いました。とても信仰的な告白の言葉です。主イエスが清くすることができることは信じて疑いません。
男が、「癒すことができる」ではなく、「清くすることができる」と言っているのはとても印象的です。この聖書箇所では、「癒す」という言葉は一度も使わずに、「清める」という言葉を4回使って強調しています。男の願いは単なる肉体的な病の癒しだけではありません。
人間は肉体的に健康なだけでは幸せではありません。男の願いは自分で、「汚れている」と叫ばなければならなかった状況から解放されて清められることです。自分を含めて、すべての人たちから汚れているとみられるのではなく、清い人間として尊重されて生きることです。
聖書はすべての人に向けて書かれたものです。これは単なる規定の病を患っている他人事の話で、私たちには関係がないのではありません。私たちはこの男と同じ規定の病は患ってはいないでしょう。しかし規定の病のような汚れた罪を持つものです。私たちもこの男と同じように謙って、主イエスにひざまずいて、「私を清くすることがおできになります」と告白をするものです。
主イエスは自分を清くすることができることを男は信じています。しかしそれには一つの条件があることを知っています。それは主イエスがお望みならばです。この言葉は本当に謙遜であり正しい信仰の言葉です。私たちは時に、御心がどうかよりも自分の願いをどうしても叶えて欲しいと祈ることがあります。
自分のことならともかく、自分の愛する家族の健康に関わること等ですと誰でもそうなると思います。しかし主イエスはゲッセマネの祈りで、14:36のように自分の願いを正直に訴えつつも、自分の思いよりも御心がなるようにと祈られました。神を信じ信頼する者として、主イエスに倣うものでありたいと願います。
「お望みならば、私を清くすることがおできになります」という文章は原語では5つの言葉から出来ています。これは考え過ぎかもしれませんが、Ⅰコリント14:19の言葉を思い出します。Ⅰコリント14:19の「5つの言葉」が何を意味するのかは分かっていませんが、もしかするとと思います。
2、清めを望まれる主イエス
全知全能の主イエスは男の過去の苦しみもすべてご存じの上で、男の現在の姿と行動をご覧になられ、その言葉を聞かれ深く憐れまれました。そして手を差し伸べてその人に触れました。汚れた者に触れる者は、律法によると儀式的に汚れます。
しかし主イエスは律法に反してまでも主イエスのところに来た男の思いに応えられるように、愛を込めてその人に触れられました。主イエスは7:15で、「外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである。」と言われます。実際にハンセン病も接触による感染はないようです。
そして主イエスが、「私は望む。清くなれ」と言われると、たちまち規定の病は去り、その人は清くなりました。主イエスの権威は、26節で汚れた霊を追い出し、31節ではシモンのしゅうとめの熱を引かせ、34節ではその他にも、大勢の病人を癒し、多くの悪霊を追い出されました。そしてここでは規定の病を去らせました。それは神の国の圧倒的な権威のよるものです。
ここで男が願った清めと主イエスが願われた清めには違いがあるように思います。男の願った清めは規定の病が癒されて、社会的に清い人と認められることです。しかしいくら病が癒されて、健康を回復したとしてもこの世での命はいつかは終わりを迎えます。それでは少し空しいものです。
しかし主イエスが願われた清めは15節の福音を信じて四重の福音のいう清めに与ることです。それは、主イエスを信じて新しく生まれ変わり(新生)、聖霊の力によって生きる者とされ(聖化)、神との健全な関係によって病を癒やされ(神癒)、主イエスが(再臨)される時に栄光の体に変えられることです。
主イエスは聖書に書かれている人たちだけではなく、すべての人が四重の福音の清めに与り、永遠の命を得ることをお望みです。それは現代を生きる私たちについても同じです。「私は望む。清くなれ」という御言はすべての人に対する主イエスの言です。
そのために、主イエスはこの後に私たちの罪の赦しのために十字架に付かれます。私たちが行うことは、この男のように謙って、主イエスを信じてひざまずいて、「私を清くすることがおできになります」と告白して清めていただくことです。
3、男の反応
主イエスは男に、「誰にも、何も話さないように気をつけなさい。」と厳しく戒めて言われました。それは誰に、どのように清めてもらったのかについてです。ただ一つだけすべきことを命じられました。それは、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた物を清めのために献げて、人々に証明することです。
それはレビ記14章に定められたとおりであり、主イエスは律法を重んじられます。清めの判断は祭司が行い、祭司が贖いの献げ物を献げて清くなります。清めの儀式を行い清くなり、周りの人たちに清い者となったことを証明して受け入れてもらいます。これは現代の清めの儀式である洗礼と似ている部分があるでしょうか。
しかし、男は出て行って、大いにこの出来事を触れ回り、言い広め始めました。主イエスが命じられたこととは全く反対のことをしました。主イエスが命じられた、祭司に体を見せる等は行ったのでしょうか。少し後になってからは、恐らくは行ったことでしょう。
なぜこの男はこのようなことを行ったのでしょうか。それは普通には有り得ない、余りにも素晴らしいことだったからでしょう。この男がいつ規定の病を患い、どの位の期間患っていたのかは分かりません。しかし世間からは見捨てられたような感じで、本当に絶望的な思いであったと思います。
しかし今や普通の生活に戻ることが出来ました。家族との絆も取り戻すことも出来たことでしょう。普段は健康の有難みはそれ程は良く分からないかも知れません。健康に限らずに、大切なものは失ったときに初めて気付くものと良く言われます。しかし男は一度失った、本当に大切なものを再び、取り戻すことが出来ました。
その喜びはどれ程に大きなものだったのでしょうか。主イエスが命じられたように、誰にも、何も話さないことは到底、出来なかったのでしょう。男は自分の正直な思いがそのまま行動になったような感じがします。男のそのような行動を取った気持ちは良く分かります。しかし、だからこそ、主イエスは厳しく戒められたのでしょう。
男が触れ回り、言い広めたのは、勿論、規定の病から清められたことでしょう。それは事実ではあり、主イエスの御業を表すものではありますが、男の行動は主イエスが望まれることではありませんでした。規定の病からの清めは男が心の底から願っていたことであり、主イエスの大きな御業です。
しかしそのような奇跡だけを触れ回り、言い広めてしまうと、人々の関心が奇跡だけに向いてしまいます。しかし主イエスが望まれるのは、15節の神の福音を宣べ伝えることです。奇跡を聞いた人が福音を信じるのであれば良いのですが、そのようにはならないことを主イエスはご存知であったのだと思われます。
それどころか反って、ご利益宗教のような誤解を生む可能性も考えられます。これは現代においても全く同じです。救い主イエス・キリストを信じる信仰に恵みは伴います。そして恵みだけを強調して伝道をすることがあるかも知れませんが、ご利益だけが目的ですと健全な信仰を生むのは反って難しくなってしまうのかも知れません。
それで主イエスはもはや表立って町に入ることができず、外の寂しい所におられました。この寂しい所も荒れ野と同じ言葉が使われていますので、荒れ野と思われます。良かれと思って行うことでも、主イエスの言に従わず、御心を行わないことは、結果として主イエスを締め出すことになってしまいます。
それでも、人々は四方から主イエスのところに集まって来たといいますので、主イエスに対する求めが如何に強いものであったかが分かります。私たちは聖書をとおして主イエスがどのようなお方であるのかを詳しく知ることができます。これは大きな恵みです。
そして私たちはいつでも、男のように主イエスの前に出て、ひざまずいて願い、「私を清くすることがおできになります」と告白することが出来ます。私たちはクリスチャンになった後にも間違いを犯してしまうことがあります。しかしそれでも、何度でも、悔い改めるなら、「私を清くすることがおできになります」と告白して罪の赦しを求められます。そのために主イエスは十字架に付かれました。
そして主イエスは深く憐れんで、手を差し伸べて私たちに触れ、「私は望む。清くなれ」と言ってくださいます。十字架による罪の赦しの恵みに感謝して、清めの恵みに与らせていただきましょう。そして主イエスの福音を正しく宣べ伝えさせていただきましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。男は規定の病の清めを願い求めましたが、主イエスはすべての人の完全なる清めを望まれます。そのために主イエスは十字架に付かれました。聖霊の導きの中で、本当にその意味を理解し、四重の福音の完全なる清めに与らせてください。そしてそのことを正しく宣べ伝えさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。