「たとえで示される神の国の秘義」

2025年2月23日礼拝式説教 
マルコによる福音書4章10~12、33、34節 
        
主の御名を賛美します。

1、たとえ
今日の個所は先週の「種を蒔く人」のたとえと、その説明の間に入れられた内容です。1~20節は、どのような順番で説教をするのかを迷いましたが、今日の内容だけでも説教の1回分にはなると思い、分けました。主イエが教えを語り終えて群衆が帰り、お独りになられたときに、12使徒と共に主イエスの周りに人がいました。

この人たちは12使徒とは別の弟子たち等の主イエスに従っている人々のようです。彼らは「種を蒔く人」のたとえについて尋ねました。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には主イエスが語られたたとえが多くありまして、主イエスの御言葉の3分の1以上がたとえです。たとえの数は数え方にもよりますが60前後です。

たとえは元々は比較を意味します。それは良く知られたものを通して、知られていないものを説明する方法です。自然や日常生活のたとえを通して、霊的な真実を明らかにします。この4章では5つのたとえを用いて、霊的な神の国を説明します。

たとえ等の回りくどい言い方を使わないで、もっと直接的な、はっきりとした言い方をした方が分かり易いのではという考えもあるかも知れません。なぜわざわざ、たとえを使うのでしょうか。たとえには一般的には5つの効果が考えられます。

1) 興味を引く
人々が普段から接している自然や日常生活の話は聞き易いものです。この話を直接に聞いている群衆の中には、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と言われますと、私も家族も毎年、種蒔きをしていると感じる人が多くいることでしょう。

2) 心を開く
いくら大切な真理を語っても、それが堅い話や、抽象的な話であると心を開いて聞き難いものです。例えばいきなり、「あなたがたの罪とは」と語り始めると心を閉じてガードを固くしてしまうかも知れません。しかし、「空の鳥を見なさい」(マタイ6:28)を言われますと、何も気にせず心を開いてゆったりとして話を聞き易い感じがします。

3)印象強く、覚え易い
当時の主イエスの話は書かれた聖書ではなく口頭で伝えられました。たとえは印象が強く、覚え易い利点があります。聖書の言葉を覚えるのは難しい場合もありますが、この「種を蒔く人」のたとえや、岩の上と砂の上に家を建てた人(マタイ7:24~29)等の話は子どもでも内容を覚え易いものです。

4) 聞く者に考えさせる
たとえは簡単な内容なので自分で考えることが出来ます。「野の花がどのように育つか、よく学びなさい。働きもせず、紡ぎもしない。」(マタイ6:28)と言われますと、確かにそうであり、どうしてだろうと聞く人が自分で考えることが出来ます。

5) 言葉の限界を超える
言葉では表現出来ない豊かさを、たとえでは表現することが出来ます。聖書では、地の塩、世の光等の表現があり、一般的には、私の太陽、花のように美しい、等の表現があります。

たとえは普通は話が良く分かるようにするためのものです。主イエスはこれらのことを考えられながら、人々の聞く力に応じて御言葉を語られました。これから主イエスのたとえを読むときに、それはどのような効果があるものであるかを考えつつ味わいたいと思います。

2、神の国の秘義
「種を蒔く人」のたとえの意味を尋ねられた主イエスは、あなたがたには神の国の秘義が授けられていると言われて、14節からの説明をされます。あなたがたというのは主イエスの周りにいて、主イエスの話を聞く人たちです。それは3:20ですと家の中にいる人たちです。

しかし、外の人々には、すべてがたとえで示されます。外の人々というのは、3:31では主イエスの母ときょうだいを含めて家の外にいる人々と言えます。外の人々にはたとえで示される理由は12節で、これはイザヤ6:9、10の引用です。このときから約7百年前に既に預言されていたことです。

「立ち帰って」という言葉は、「向きを変える」という意味で、「悔い改める」という意味です。それは、「悔い改めて赦されることがない」ために、外の人々には神の国の秘義がたとえで示されます。たとえは普通は先程お話しましたように、話を良く分かるようにするためのものです。

しかしここでは全く逆に、外の人々には神の国の秘義を隠すために、たとえが使われます。12節の御言葉はどのようなことを意味しているのでしょうか。神の国の秘義の「秘義」は英語ではミステリーで、口語訳では奥義と訳されていました。

日本語の奥義は、学問、武芸、技芸等で、その道を長年究めた極一部の人だけに秘密に伝えられるものです。逆に言いますと、奥義はその道を長年究めた人には理解できても、普通の素人が聞いても何のことか良く分からないようなもののようです。

主イエスはこれまでに大勢の病人を癒し、多くの悪霊を追い出してこられました。その話は3:8で広い地域に広がって、多くの群衆が見ました。そして主イエスはマタイ10:28で、「私が神の霊で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ。」とはっきりと宣言をされています。

それを考えますと、「立ち帰って赦されることがない」のはそれが目的というよりも、結果的に、そうならざるを得ないという預言のように思われます。主イエスが多くの御業を行われて神の国が来たことをいくら証しされても、それすら認めず、悟らない人は、悔い改めて赦されることがなくなってしまいます。
それは剣道を全くしたことのない人に剣道の奥義を伝えるようなもので、奥義を聞いても何のことか全くわからず無意味です。それにしても厳しい内容であるようにも思えます。12節の対象となるのはどのような人なのでしょうか。

「見るが認めず、聞くが悟らず」といいますのは、ある程度は、救い主がこの世に来られることを知っている人のように思えます。ファリサイ派の人々等でしょうか。キリスト教の国でない日本等で生まれ育った人が聖書の話を聞いて悟るには、人にもよりますがハードルは高いことがあるかも知れません。

主イエスの語られるたとえを理解するためには、主イエスを信じる信仰が鍵になります。主イエスの御業を見て、主イエスを救い主と認めて、神に国が来たことを悟ると、たとえの鍵が解かれて、神の国の秘義が授けられます。逆に主イエスを受け入れない者は、たとえという鍵によってその秘義が閉じられてしまいます。

主イエスは、たとえを用いずに語られることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべて説明されました。13~20節に、「『種を蒔く人』のたとえの説明」の小見出しが付いていますが、これが弟子たちにひそかにされた説明であるのか、もっと細かい説明をされたのかは分かりません。もっと細かい説明があるのであれば聞いてみたいものです。

3、たとえで示される神の国の秘義
この後に続くたとえでは、どのような神の国の秘義が隠されているのかをそれぞれのときに、考えて行きたいと思います。先週、神の国の秘義について少しお話しましたが、少し整理をしてお話したいと思います。まずユダヤ人が考えて期待していた神の国は、ダニエル2:44に預言をされている軍事的にも政治的にも強力な国です。

余談ですがトランプ大統領は自分は神によって立てられたと主張して、この預言を意識しているようにも思えます。そのことも影響もあり米国のクリスチャンでトランプ大統領を熱狂的に支持する人々がいるようです。

神の国の秘義の一つ目は、主イエスがこの世に来られたことで、神の国は既にこの世に来ましたが、人々の期待とは異なる次元で来られたことです。人々は救い主(メシア)がダビデ王のように、人間の主権である、ローマの支配といったような、この世の国の政治的な秩序を変えることを望み、期待しています。

しかし主イエスは悪霊(サタン)を追い出され、霊的な秩序を変えられます。まず初めに霊的秩序を変えることによって、この世の次元の生活に変化を起こされます。私たちはこの世のことを変えることを本当に望むのであれば、まず霊の次元を聖霊の支配に変える必要があります。それによって多くの収穫を得ることが出来るようになります。

このことは3、9節にありますように、聖霊の導きの中で、「よく聞く」必要のあることです。私たちは自分たちの思い込みに囚われ易いものです。謙って悔い改めるときに初めて、神の国の秘義のことは理解出来るようになります。

ただ洗礼者ヨハネでさえ弟子たちを主イエスに送って、「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」(マタイ11:3)と確認をしていますので、判断は難しかったのかも知れません。

神の国の秘義の二つ目は、一つ目と似ていますが、神の国は既にこの世に来ましたが、人々はそれを拒むことが出来ることです。4つ蒔かれた種の内で3つの種は実を結ばないように、主イエスによる神の国は、ダビデ王国のようなこの世での強制力を持つものではありません。それは人々が予想していた神の国と全く異なる姿です。

なぜ神の国は人々に分かり辛いようなかたちで来て、また人々に強制力を持たないのでしょうか。神の国は神が完全にご支配をされて、人々が神の支配に完全に従うところです。自分の思い込みを貫き通したり、自己中心で悔い改めない状態の者には相応しくないところです。

神の国に相応しくない状態の者が永遠に続く神の国に入ることは相応しくありません。私たちは「種を蒔く人」のたとえ等を通して、今、自分がどのような霊的な状態であるのかを聖霊に探っていただきます。そして神の国に相応しい者になるために、土を耕し、石や茨を取り除いていただきます。

ローマ9:33は、「見よ、私はシオンにつまずきの石 妨げの岩を置く。」言います。たとえで示される神の国の秘義は、つまずきの石 妨げの岩です。それは人々をつまずかせることによって、そのまま自分の思い込みで進んで行ったら危険であることに気付かせるためです。

それは駐車場の車止めのように人々の進行を妨げることによって危険を知らせます。そして悔い改めへと導きます。それらは私たちの安全、幸せのためですが、強制されるものではありません。あくまでも自主的な判断です。

主イエスは私たちが神の国に相応しい者となって神の国で永遠に生きるために十字架に付かれました。主イエスの十字架を感謝し、たとえで示される神の国の秘義を聖霊の導きによって理解し、従わせていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスはたとえを用いられて多くのことを示されました。それは私たちがそこで一度立ち止まり、悔い改めて、私たちが間違った危険な方向に進まないための神の知恵です。信仰の鍵によって示される神の国の秘義をよく聞き、幸いな歩みをさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。