「風も湖も従う方」

2025年3月9日 召天者記念礼拝式説教  
マルコによる福音書4章35~41節
        
主の御名を賛美します。

1、突風
今日の個所は内容からいいますと、5章にあります奇跡の内容ですので、ここから5章になっても良いかと思います。場所的にカファルナウムでの出来事として4章に入っているのかも知れません。4章で神の国のたとえを聞いた弟子たちは主イエスの奇跡をどのように受け止めるのでしょうか。

その日の夕方になると、主イエは弟子たちに、「向こう岸に渡ろう」と言われました。主イエスは1節で舟に乗って教えておられ、恐らく一日中教えておられたのだと思われます。今はペトロの家のあるカファルナウムの岸辺におられて、5:1でゲラサ人の地方に着いています。

マタイによる福音書ではガダラ人の地方になっており、同じ地域と考えられ、ガリラヤ湖の南東方面に向かいました。主イエスを乗せた舟のほかに舟も一緒ですので、12使徒が舟を分けて乗ったのか、12使徒以外の弟子たちや従う人たちも一緒だったと思われます。

舟を漕ぎ出すと激しい突風が起こりました。ガリラヤ湖は周りを山に囲まれた、すり鉢状の底にあります。夕方になると山で冷やされた空気が山から急にガリラヤ湖に吹き降ろして突風が起こるようです。波が舟の中まで入り込み、舟は水浸しになりました。

弟子たちの中にはこのガリラヤ湖で元漁師だったペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネがいますので、ある程度の突風や波は慣れていたと思われます。しかし、主イエスご自身は、艫の方で枕をして眠っておられました。

艫というのは船の用語で、新改訳では分かり易く、「船尾」と訳しています。舟は船首の舳先は波に当たって揺れ、艫の方が揺れは少ないのでそちらを選ばれたのでしょうか。しかし、主イエスはどうして眠っておられたのでしょうか。一日中、舟の上で揺られながら群衆に教えを話されて疲れておられたからでしょうか。

主イエスは全知全能の神ですので、お疲れはあったのかもしれませんが、それだけで眠られるお方ではありません。それよりも今、弟子たちがどのような状況にあり、何を教える必要があるのかを考えられたのだと思います。

2、滅びに対して
弟子たちは主イエスを起こして、「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と言いました。余談ですが、これは誰が中心になって言った言葉のだろうかと思わず考えてしまいます。弟子たち皆がそのように言ったのだとは思いますが、大体、中心になって言うのはリーダー格のペトロです。

元漁師のペトロの名誉を考えて敢えて名前を出していないのかとも思います。元漁師であるからこそ、その恐ろしさを良く知っていて、元漁師でも恐ろしくなるほどの突風だということです。

「溺れ死ぬ」と訳している原語は、「滅びる」という意味の言葉です。直訳では、「私たちが滅びても、かまわないのですか」になります。新改訳は、「私たちが死んでも、かまわないのですか」と訳します。これは、このままでは死にそうだから、切羽詰まった状況で、何とか助けてくださいという訴えです。

主イエスに、「私たちが滅びても、かまわないのですか」と訴えることを私たちはすることがあるのではないでしょうか。主イエスは、「向こう岸に渡ろう」と言われましたが、聖書で湖や海は悪の象徴であったり、悪の住む場所として使われることがあります。黙示録13:1では、悪の獣が海から上がって来ます。

湖は悪の住むこの世を象徴します。主イエスは私たちにも、「向こう岸に渡ろう」と言われ、私たちはそこを渡って行きます。人生は航海にたとえられることがあります。今日は迷った結果、この後に賛美をしませんが、248「人生の海の嵐に」という曲もあります。私たちの人生には時に、激しい突風が起こり、波が舟の中まで入り込み、舟は水浸しになります。

激しい突風や波とはどのようなものでしょうか。それは思いも寄らぬ出来事やトラブル、事故、病気等であるかも知れません。それらが入り込んで来るのは自分の人生だけではなく、自分の家族、親戚、教会、会社等であるかも知れません。

そのときに私たちは主イエスに、「私たちが滅びても、かまわないのですか」、「私たちの家族が滅びても、かまわないのですか」と訴えることがあるのではないでしょうか。主イエスは弟子たちの訴えに対して弟子たちに対して直接は、「かまう、かまわない」というようなことは何も答えられません。

ただ起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」と言われると、風はすっかり凪になりました。このような奇跡は読むときに、どのように考えると受け入れ易いのでしょうか。このようなことは製造者は誰かという視点から考えますと受け入れ易いように思います。

例えば、テレビやパソコンを見たことを全くない昔の人が、ボタン一つでテレビやパソコンを操作するのを見ますと、操作している人を奇跡を行う神のように思うかも知れません。しかしテレビやパソコンを作った人にとっては、自分で作ったものなので、何をしたらどう動くかということを知っているものです。

主イエスについて箴言8:30(新改訳)は、「わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。」と言います。創世記1章で世界が創造されたときに、主イエスは父なる神の御言としてこの世界を造られた方です。主イエスによって造られた風や湖が、造られた主イエスに従うことは自然なことです。

PL(Product Liability)法(製造物責任法)という法律がありますが、これは製造物の欠陥により損害が生じた場合には製造者が責任を負うというものです。神によって造られた人間の罪を、創造者である神が負ってくださるのは何かPL法の精神と似ている感じがします。

先週の水曜日から受難節(レント)に入りましたが、主イエスが私たちの罪のために十字架に付かれた意味に思いを巡らしつつ、この季節を歩みたいと願います。さて他に、突風や波を霊的に悪の働きと考えるなら、これまで多くの悪霊を追い出されて来た主イエスの御言に従うのも当然と言えます。凪は神による完全なる平安と静寂を意味します。

今日は召天者記念礼拝式です。先に天に召された方々を偲びつつ礼拝を献げています。召天者の中には幼い子から高齢の方まで様々です。何歳まで生きたらそれで十分ということは何歳になってもありません。愛する人の死は例え何歳まで生きたとしても悲しいものです。

特に普通よりも早く亡くなる場合には、なぜという思いが悲しみを大きくするものです。「私たちが滅びても、かまわないのですか」という弟子たちの訴えに主イエスは直接的には何もお答えにはなりません。最終的には後の十字架によってお応えになられます。

凪にされた後に主イエスは、「なぜ怖がるのか。まだ信仰がないのか。」と言われます。「まだ信仰がないのか。」と問われますと、正直なところ、「信仰はなくはない。」といったところでしょうか。

私たちは色々なものを怖がりますが、最大のものはやはり死です。ここの死は原語では「滅び」の意味です。死によって滅びてしまい、その存在がすべて無くなってしまうとしたら恐怖です。しかし主イエスは私たちが最も怖がる死に打ち勝つために、この世に遣わされました。

そして後に十字架の死から甦られて死を滅ぼされます。このときの弟子たちはまだそのことを知りませんが、これまで大勢の病人の癒しや悪霊の追い出しを見て来て、神の国の秘義も聞きました。そしてこの後の5:42では亡くなった12歳の少女の甦りを見ることになります。
しかしその甦った少女もいずれはこの世を去ることになります。そして私たちすべての人もいずれこの世を去ることになります。そのときに、この世に残される人たちには、激しい突風が起こり、波が舟の中まで入り込み、舟は水浸しになります。愛する人の死は人生における一番大きなストレスと言われます。

3、風や湖も従う方
そのような人生で最大の苦しみ、悲しみを癒やすためにはどうしたら良いのでしょうか。マタイ14章で、湖の上を歩いている主イエスを見たペトロが、私も水の上を歩かせてくださいと言いました。そして、主イエスの「来なさい」という御言葉に従って、主イエスの方へ進んだときに、ペトロは水の上を歩くという奇跡に与りました。

しかしペトロは風を見て怖くなると沈みかけてしまいました。これは私たちの人生も同じです。私たちの人生には突風や波が繰り返し押し寄せて来ます。やっと通り過ぎたと思っても何度もやって来ます。そのときに私たちが見るべきものは、この世の突風や波ではありません。それらに目を留めてしまうと怖くなってペトロのように沈みかけてしまいます。

私たちは風や湖に命じて従わせることは出来ません。それは私たちも、風も湖も神に造られた被造物同士だからです。しかし風や湖を造られた方は従わせることが出来ます。弟子たちはそれを見て非常に恐れました。風や波に目を奪われて怖がるのは不信仰ですが、風も湖も従うのを見て畏敬の念を持って神を正しく恐れることは健全な恐れです。

そして、「一体この方はどなたなのだろう。」と互いに言いました。これはとても大切な問いです。この後の5章でも私たちは主イエスのよる奇跡の記事から御言葉を聴きますが、凄いなとか不思議で終わるのではありません。奇跡は、「行いによるたとえ」とも言われます。12節にありますように、見るなら認め、聞くなら悟る必要があります。

この問いが8:29のペトロの、「あなたは、メシアです。」という告白に導くことになります。私たちが信じる神は、風や湖を造られ従わせるお方であり、私たちを造られ命をお与えになられるお方です。私たちすべての人はこの世の死は経験しますが滅びることはありません。それは主イエスが既に十字架に付いてくださったからです。神を正しく恐れ、感謝して安心して歩ませていただきましょう。。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。風や湖を従わせる主イエスを見た弟子たちは、「一体この方はどなたなのだろう。」と互いに言いました。これは私たちも考える必要のある問いです。私たちを救い永遠の命を与えてくださる神を正しく恐れ、幸いな人生を歩ませてください。しかし今、愛する人の死により悲しみの中にある方々に慰めをお与えください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。