「弟子の手を用いられる主イエス」
2025年5月11日 礼拝式説教
マルコによる福音書6章30~44節
主の御名を賛美します。
1、主イエスへの報告
使徒たちは主イエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告しました。これは12使徒が遣わされて、自分たちが行った13節のことや、教えた12節のことを報告したことです。今日の個所は内容的には13節に続くものです。
新入社員の研修等で良く、「報連相(報告、連絡、相談)」を大切にするよう指導があります。私たちも祈るときに、願いごとだけでなく、神に報連相を行うものでありたいと思います。報告を行う者に主イエスは次に必要なことのアドバイスをされます。
主イエスは、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行き、しばらく休むがよい」と言われました。12使徒は遣わされている間はずっと、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからです。私たちも忙しくした後には、霊的にも肉体的に静まって休み、きちんと神と向き合うときを必要とします。
キリスト教界では、このことを「リトリート」と呼んでとても大切にします。東京聖書学院では、7、8月の夏季伝道期間の後にリトリートとして、奥多摩の施設等に2泊3日位で行き、夏季伝道の報告を行い、静まって御言を聴くときを持っていました。
2、群衆を憐れむ
そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行きました。「自分たちだけ」と言いますのは、原語では「人を避けて」と言う意味で、群衆からは離れますが主イエスはご一緒です。寂しい所は人里を離れた所のようです。
ところが多くの人々は、方々の町から徒歩で駆けつけ、彼らより先にそこに着いたと言いますので、舟の行く先の見当は付いていたようです。彼らに対する求めが大きく、必死のようです。いつの時代でも、主イエスを求める人は、主イエスの奇跡の御業に与り、祝福を受けます。
主イエスは追いかけて来た大勢の群衆を見られました。主イエスはご自身を求める者をいつでも見てくださいます。そして飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれました。それは自分ではどうしたら良いのか分からず、幼子のように頼れる人をただ追いかける姿です。
主イエスが何かをされるときの動機の多くは憐れみであって、律法的な裁きではありません。主イエスが、「私が求めるのは慈しみであって、いけにえではない。」(マタイ12:7)と言われる御言はクリスチャンが何かを考えるときの基本となるものです。
主イエスはただ憐れまれるだけでなく、憐れみを行動に移されます。そこでいろいろと教え始められました。私たちも憐れむだけではなく、憐れみを実際の行動に移すものでありたいものです。
3、神への報連相
そうこうしているうちに、時もだいぶたったので、弟子たちが御もとに来て、「ここは寂しい所で、もう時も遅くなりました。人々を解散し、周りの里や村に行ってめいめいで何か食べる物を買うようにさせてください。」と言いました。群衆は主イエスの教えを聞いて霊的には満たされましたが、肉体的にはお腹が空いたことでしょう。
この弟子たちの提案を皆さんはどのように思われるでしょうか。これは常識的に考えますと妥当な判断かも知れません。しかし弟子たちは大きな過ちを犯しています。それは自分たちは弟子であるにも関わらず、師である主イエスの意向を何も確認せずに、自分たちで勝手に判断をして決めた上で、主イエスに対して、「~させてください。」と指示をしていることです。
ここの「~させてください」というのは許可を求めているのではありません。新改訳は、「皆を解散させてください。」と訳していて、弟子が師に対して、「あなたはこうするように」と指示を行っています。この場面はルカ10:40で、マルタが妹のマリアが自分の手伝いをするようにおっしゃってくださいと主イエスに指示をしたのと似ています。
神に従うのではなく、神に対して指示をするというのは、とんでもない的外れです。しかし主イエスはそのような弟子たちを非難することはされません。体験を通して学ばせようとされます。イザヤ55:9の、「天が地よりも高いように 私の道はあなたがたの道より高く 私の思いはあなたがたの思いより高い。」ことを体験によって伝えます。
いくら常識的には当然と思えることであったとしても、何かをするときには一つ一つ御心を確認しながら行う必要があります。神への報連相が必要です。群衆は主イエスを必死に追いかけて求めて来ました。しかも寂しい所で遅い時間になっています。
4、あなたがたの手で
そこでいきなり解散して、後は自己責任でというのは少し可哀そうな気もします。主イエスは人間の霊的な必要だけではなく、肉体的な必要も良くご存じで、再び群衆を憐れまれたようです。そこで主イエスは、「あなたがたの手で食べ物をあげなさい。」と答えられます。「手」は「力」の意味です。
この御言には、弟子たちは戸惑ったことと思います。それは出来るものならそうしてあげたいのは山々ですが、それが出来ないから解散を提案しているのですという思いであったことでしょう。弟子たちは、「私たちが二百デナリオンものパンを買いに行って、みんなに食べさせるのですか」と言いました。
1デナリオンは1日の賃金ですので、1万円としますと二百デナリオンは二百万円です。パンを食べた人は5千人ですが、これは男だけの人数で(マタイ14:21)、分かり易くするために、女や子どもを含めて2万人としますと、一人当たり百円で、妥当な金額です。しかし弟子たちに二百デナリオンは高過ぎます。
主イエスの指示によって弟子たちがパンは幾つあるのかを確かめてみると、パンが五つと魚が二匹です。このときにそのパンと魚を見た弟子たちは、どのような思いであったことでしょうか。正直なところ、たったこれだけではどうしようもないという気持ちであったことでしょう。
主イエスは弟子たちに、皆を組みに分けて、青草の上に座らせるようにお命じになりました。これは何気の無い文章ですが、大切なことが書かれています。それは主イエスが直接に皆にお命じになったのではありません。主イエスは弟子たちを通して、弟子たちの手を用いて、皆を分けて、座らせるようにお命じになられました。
人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろしました。これもとても大切なことです。約2万人の人々が時間も遅くなって、お腹も空いて来て、これからどうなるのだろうかと思っていたことでしょう。しかし彼らは何も言わずに、主イエスによって選ばれた弟子たちの指示に素直に従って腰を下ろして待ちました。
神の奇跡は主の御心に従って人々の心が一つになって整えられたときに起こるものです。これは勿論、34節で群衆が主イエスの教えを聞いて霊的に整えられていたことが影響しているのだと思われます。主イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ、二匹の魚も皆にお分けになりました。
ここで使われている言葉と動作は14:22の最後(主)の晩餐と全く同じです。最後の晩餐を記念して私たちは聖餐を行います。この五千人の給食の記事は聖餐のひな型です。私たちは聖餐に参加するときに、私たちの罪のために十字架に付かれた主イエスを思い起こします。裂かれるパンは十字架で裂かれる主イエスの身体です。
聖餐のときに私たちは、そのひな型となったこの五千人の給食の記事を思い起こしたいものです。主イエスの裂かれる身体であるパンは弟子たちの手に渡されました。そして弟子たちが主イエスの身体であるパンを与えたところ、人々は皆、食べて満足しました。
この奇跡を読みますと不思議であると思うと共に、なぜこのような遠回りの奇跡を行われるのだろうかとも思います。神は全能のお方ですので、わざわざ弟子の手を借りなくても、お一人で何でも行うことが出来ます。
出エジプト記16章の内容を思い起こすなら、わざわざ5つのパンを使わなくても、マナを降らせれば良いですし、魚二匹を使わなくても、うずらを飛んで来させれば済むことです。主イエスはなぜお一人で御業を行われないのでしょうか。神はお一人で御業を行うよりも交わりを大切にされます。
創世記1章でこの世を創造されたときにも、神の霊である聖霊が水の面におられました。そして神が「光あれ」と言われると、言であり受肉前の主イエスが光を造られました。神は三位一体で歩まれます。
同じように主イエスもお一人で御業を行われるよりも、弟子に指示をされ、弟子の手を用いて御業を行われることをお喜びになられるお方です。弟子たちは自分たちの手を通して御業に参加させていただくことで、大きな喜びを体験し、神に対する信頼を深め、信仰が成長して行きます。
それは神のかたちに造られた私たち人間も同じです。私たち自身の手で御業を行わせていただくことも大きな喜びです。しかし主にあってより深い喜びは、自分よりも若い人たち等に御業に加わってもらい、喜びを共にして分かち合うことです。それは信仰継承にも繋がって行きます。
このときに弟子たちに渡されたパンは現代のクリスチャンの手に渡されています。私たちは全ての人にこのパンを手渡す役割を託されています。パンのたすきリレーでしょうか。主イエスの身体であるパンでなければ私たちの身体も霊も満たされることはありません。
そして、パン切れと魚の残りを集めると、12の籠いっぱいになりました。このことは3つの意味が考えられます。一つ目は、パンを配っていた弟子たちが後で食べる分ということです。二つ目は、神の祝福はイスラエルの12部族のためにも残されているということです。三つ目は、神に献げられるものは、祝福されて献げられるものより多く残るということです。いずれにしましても神の祝福は計り知れない程に無限大ということです。
この奇跡は4つの福音書の全てに記されているただ一つのものです。それ程に大切なものです。私たちはこの記事をただの神の奇跡として読むのではありません。これは私たちが担う役割を教えているものです。神は私たちが手を使ってすべての人々の身体と霊の必要を満たすことを求めておられます。
必要なパンは主イエスが十字架で既に備えてくださいました。私たちは聖霊の導きに従って、まずは感謝してパンを受け取り自分が食べて満たされましょう。そして満たされた者は憐れみの心を持って、他の人々へのパン配りに用いていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは弟子たちの手を用いられて五千人の給食の奇跡を行われました。これは単なる過去の出来事であるだけではなく、主イエスは現代においてもクリスチャンの手を用いて御業を行われます。
私たちの罪のために十字架に付かれた主イエスの身体であるパンに与らせてください。そしてそのパンを全ての人に届けるために私たちの手をお用いください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。