「開け」 

2025年6月29日 礼拝式説教 
マルコによる福音書7章31~37節
        
主の御名を賛美します。

1、耳が聞こえず口の利けない人
主イエスは24節でティルスの地方へ行かれました。ティルスは後ろの地図9「イエス時代のパレスティナ」の3Bの地中海沿いにあり、現在はレバノンの町です。それからまたティルスの地方を去り、シドンを経られました。シドンは3Aにあるこれも地中海沿いの異邦人の町です。

それからデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に来られました。デカポリスは4Dにありますので、デカポリス地方を「通り抜け」、ガリラヤ湖に来られたというのは何か変な感じがします。原語を見ますとデカポリス地方「の中にある」ガリラヤ湖に来られたという意味のようです。

ガリラヤ湖の周辺で主イエスは大勢の病人を癒し、多くの悪霊を追い出されていますので、その名は知れ渡っています。そこで人々は耳が聞こえず口の利けない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願いました。

色々なものが発達した現代でも、耳が聞こえず口の利けないことは多くの不便があることと思います。この当時であれば尚更でしょう。そのために人々は主イエスが手を置いて、この人を癒やされることを願いました。このような記事を読みますと、耳が聞こえず口の利けないことは大変なことではあると思いますが、私はそうではないので自分には直接は関係の無いことと感じてしまう部分があります。

しかし聖書は神が全ての人に向けて書かれたものであり、自分には関係の無いという記事は一つもありません。そこで聖書協会共同訳は全ての人がこの人を自分のこととして読むようにするためにか、「人」と訳して男性にも女性にも当てはまるようにしているようです。

しかし原語では、この人は男性形で書かれていますので新改訳は「彼」と訳しています。ただ女性の方もこの人を自分のこととして受け止めて読んでいただきたいと思います。しかし耳が聞こえ、口の利ける人が、どうしてこの人を自分のこととして受け止めることが出来るのでしょうか。

私たちの多くは肉体的には音としての耳は聞こえ、言葉を話すこととしての口は利けるものです。しかし生まれながらの私たちは4:12にありましたように、「見るには見るが、認めず 聞くには聞くが、悟らず」な存在です。それは霊的には、目が見えず、耳が聞こえず、口が利けないということです。

目が見えないことについては、この後の8:22~26にありますので、今日は耳が聞こえず口の利けないことに絞りたいと思います。耳が聞こえず口の利けない人は大変であると、他人事のように考えるのではなく、それは全ての人が自分のこととして霊的に受け止める必要のあることです。

それは、あなたは聖書の語る霊的なことに対して耳が聞こえて、口が利けていますかと問われることです。耳が聞こえず口の利けないというこの順番は大切なことです。私たちはまず耳で言葉を聞いて覚えます。そして耳で聞いて覚えた言葉を話すようになります。

その意味では耳が聞こえないと口を利くのが難しくなるはずです。それを考えますと、聴覚に障がいのある方が話すことは、聴覚に障がいの出る年齢にもよりますが、本当に多くの努力をされているのだと思います。

2、耳が聞こえず、口の利けない理由
私たちは聖書が語ること、また神が語られることに、なぜ耳が聞こえないのでしょうか。今日の個所が、1~23節のファリサイ派と律法学者たちと、24~30節の女の正反対とも言える、聞き方、口の利き方の後に書かれていることは、単なる偶然ではなく意味があると思います。

ファリサイ派と律法学者たちは、この当時、誰よりも聖書のことを良く知っている専門家です。現代でいいますとそれはクリスチャンに相当するかも知れません。しかしファリサイ派と律法学者たちは神である主イエスの語られることに耳が聞こえません。それはなぜなのでしょうか。

大きくは二つの理由によると考えられます。第一に、人によって程度の差はあるとしても、自分の考えが正しいと思い込んでいて、先入観で他の人を見て、正しく聞こうとはしないからです。彼らは、主イエスは大工の息子で、律法の学校にも通っていない素人と思って馬鹿にして見下しています。

5節の彼らの言葉も完全に上から目線の言葉で、答えをまともに聞くつもりはありません。これは日本で神に対する姿勢と似ているかも知れません。日本でクリスチャンの人口は1%以下であって、聖書の神の話をしてもまともに取り合ってはもらえません。神=迷信のようなイメージでしょうか。

神などはいるはずがないという先入観で、話を聞きません。しかし世界的に見ますと、全世界の三分の一はキリスト教徒、四分の一はイスラム教徒、少数のユダヤ教徒と合わせますと、唯一の神がおられると一神教を信じる人は世界全体の過半数になります。

信者が多ければ必ずしも正しいということではないかも知れませんが、世界の半分以上の人は唯一の神を信じています。日本と言う狭い地域の常識に縛られる必要はありません。

耳が聞こえない第二の理由は、人は自分にとって都合の悪いことは聞こうとしないからです。10節にありましたようにモーセの十戒の第5戒に「父と母を敬え」があります。しかし11節で彼らは、両親に向かって、私にお求めのものはコルバン(神への供え物)と言えば、もう両親のために何もしないで済むと言い伝えています。

心の中ではこのようなことは何か可笑しいかも知れないと初めは感じるかも知れません。しかしその方が自分にとって都合が良く、利益になると考えますと、それを否定する声に耳を貸さなくなります。

テレビ局に関わる不祥事が続いています。前にあるテレビ局の不祥事が発覚したときに、同じようなことは他のテレビ局でもあるのではないかという話が出ていましたが、正にその通りでした。不祥事が起こって、その話を聞いた人は初めはそれは大きな問題であると感じると思います。

しかし自分がそのことを聞いたということを公けにすれば、自分の所属する組織は一時的には不利益を被ることになるでしょうし、自分の立場も危うくなることでしょう。そうしますと保身のために聞いても聞かなくなって行きます。また正義を訴える声も聞かなくなって行きます。その内に、そのようなことは良くあることだからと悪い習慣に慣れて行ってしまうのでしょうか。

先程お話しましたように、普通は初めに正しく耳で聞いて、それに基づいて口を利くものです。正しく耳で聞いていない人が正しく口を利けるはずがありません。例え口が利けたとしても5節のように、上から目線で、的外れなことを言ってしまいます。

不祥事に限らずに様々なことで、色々な立場の人の記者会見等が行われます。そして色々な理由によって舌がもつれたように、きちんと口の利けない人がいます。それは自分が行って来た悪事を隠すため、他の人が行った悪事を隠すため、自分の所属する組織を守るため等の理由によって、奥歯にものの挟まったような言い方になります。

3、開け
主イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出されました。それは癒しの業を好奇の目で見られることを望まれなかったからと思われます。そして指をその両耳に差し入れ、それから唾を付けてその舌に触れられました。主イエスは29節では、離れた所にいる女の娘から悪霊を追い出されました。

そのことから考えますと癒しのために特に触れる必要は無いように思われます。しかしこの人は耳が聞こえませんので、触れることなどをしないとこれから主イエスがされることが伝わりません。また主イエスはこの人がこれまでに本当に辛い思いをして来たことを全てご存じです。

恐らく優しくこの人に触れるような人はいなかったのかも知れません。主イエスは優しく触れて、温もりを通しても、この人に対する愛と、これからされることをお伝えになりたかったのだと思います。唾を付けて触れるというのは、感染症が気になる現代ではどうであるかと感じますが、唾が医薬品と考えられていた時代もありました。私の祖母も何かというと唾を付けていたような気がします。

そして、天を仰いで呻かれました。主イエスはこの人の両耳と舌に触れられて、その頑なになってしまっている状態を憐れみ、天の父なる神に呻かれました。それはこの人の苦しみをご自分の苦しみとして呻かれたのだと思われます。
そしてその人に向かって、「エッファタ」と言われました。「エッファタ」はアラム語で、「開け」という意味です。「エッファタ」という言葉は、「開け」の他に、「解き放たれよ」、(サタンの)「束縛を解く」という意味があります。それは耳も口も開け、束縛から解かれて、解き放たれて、癒されよという命令です。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すようになりました。

余談ですが、「開け」という言葉を聞きますと、つい、「ゴマ」と付け加えたくなってしまいます。「開けゴマ」という言葉は、「千夜一夜物語」(アラビアンナイト)の1篇とされる「アリババと40人の盗賊」に出て来る呪文です。「開けゴマ」という言葉の語源はこの聖書箇所であるのかとも思ったりします。

奇跡的な癒しの御業の後には、いつもの通りに、主イエスは人々に、このことを誰にも話してはいけないと口止めをされます。それは主イエスは人々の救いを願っておられるのですが、奇跡の話だけが広がると違った方向に話が進んでしまうからです。しかしこれもいつもの通りに、かえって話はますます言い広められました。

そして人々は、すっかり驚いて、「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」と言いました。これはイザヤ35:5、6の救い主の預言の成就です。そしてこれはこの人だけのことではありません。

私たちは肉体的には何も障がいがなくても、罪のために霊的に耳が聞こえず口の利けない人になってしまいます。そのような私たちを罪から解き放つために、主イエスは私たちの身代わりとなって十字架に付いてくださいました。そして指を私たちの両耳に差し入れ、唾を付けて舌に触れてくださいます。

そうしますとどのようになるのでしょうか。27節の主イエスの言葉を聞いた女のように、一見しますと自分の望みが叶えられそうもない状況の中でも、聖霊が働かれて、神が与えてくださる恵みのチャンスの声を耳が聞こえるようになります。

そして、28節で女が答えたように、謙って、神の前に正しい口を利いて恵みに与るようになります。5節のファリサイ派と律法学者たちのような的外れなことは言わなくなります。主イエスの十字架による救いを感謝して受け入れ、耳を開いていただき、御心を正しく聞いて、舌のもつれを解いていただき、御心に適うことをはっきりと話す者とさせていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。耳が聞こえず口の利けない人といいますのは、霊的な意味では私たちです。しかしそのような私たちを主イエスは憐れみ、「開け」と言ってくださいますから有難うございます。私たちの救いのために十字架に付かれた主イエスを受け入れ、耳を開かれ、舌のもつれも解かれて、御心を聞き、話し、恵みに与る者とさせてください。主イエス・キリストの御名に、よってお祈りいたします。アーメン。