「しるしを求める」
2025年7月13日 礼拝式説教
マルコによる福音書8章11~13節
主の御名を賛美します。
1、ファリサイ派
主イエスと弟子たちは先週の四千人の給食の後に10節で、ダルマヌタの地方へ行かれました。ダルマヌタという場所は良く分かっていませんが、並行記事のマタイ15:39ではマガダン地方になっていますのでガリラヤ湖の西と思われます。
するとファリサイ派の人々が来ました。ファリサイ派については聖書の後ろの44ページの用語解説に解説がありますが、律法学者を含むグループで、口伝(言い伝え)の律法を重視します。彼らは自分たちこそが律法・聖書の専門家(エキスパート)であると自他共に認めています。
聖書を良く知っていること自体は素晴らしいことです。そうであれば救い主が来られることを知っています。しかし彼らは自分たちが考えて、期待する救い主の姿があって、その期待に沿わない救い主は認めようとしません。それでは本末転倒です。救い主は神が送られる方であり、人間が救い主の良し悪しを判断する権限はなく、ただ受け入れるのみです。
しかし律法・聖書の専門家である彼らは、その本末転倒の的外れなことを公然と行っています。少し話を振り返りたいと思います。主イエスは3:5で、手の萎えた人を癒やすという、素晴らしい神の御業を行われました。しかし彼らの口伝の律法では安息日には、命に別条のない癒しは行ってはならないことになっていました。
彼らは自分たちの口伝が破られた上に3:4で、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と正論を言われて、何も言い返せずに逆上しました。そして3:6で、本来は自分たちと敵対するヘロデ党の人々と手を組んで、主イエスを殺す相談を始めました。
その後にも彼らは7:1~13で、主イエスの弟子たちが言い伝えに従って食事の前に手を洗わないことを咎めましたが、逆に主イエスから、自分たちの言い伝えによって神の言葉を無にしていると反論されてしまいました。そのような背景の中で彼らはまた来て議論を仕掛けました。
彼らは既に3:6で主イエスを殺すことを決めています。彼らはなぜこれほどまでに、かたくななのでしょうか。
彼らの姿は出エジプト記7~12章のエジプトの王、ファラオの姿に似ています。ファラオは何度も天からのしるしを見ても心をかたくなにしてイスラエルを自分の国の奴隷状態から解放しようとはしません。
それはなぜなのでしょうか。ファラオは自分は王で、イスラエルは奴隷であり、自分の方が上の立場であると考えて高ぶっています。そして奴隷を解放してしまったら自分にとって損であると思っています。それらの自己中心的な高慢の罪によって神の声を聞くことが出来ません。
その結果として、十の災いの最後にエジプトの地のすべての初子が打たれました。心をかたくなにすることによって裁きを招くことになりました。心をかたくなにすることは既に裁きが始まっていると言えます。イスラエルは主に指示に従って、小羊の血を家の入り口の二本の柱と鴨居に塗ったので主は過ぎ越されました。それによってイスラエルは解放されました。
出エジプトと主イエスの十字架の出来事はとても良く似ています。出エジプトでは心をかたくなにしたファラオによって、エジプトの地のすべての初子が打たれて、それによってイスラエルは罪の象徴であるエジプトから解放されました。
主イエスはファリサイ派の人々等の心をかたくなにした人々によって十字架に付かれて、それによって信じる人々を罪から解放します。両方共に、罪からの解放には心をかたくなにする人の罪が用いられて、血が流されます。
ところで、主イエスの十字架は天の父の御心ではありますが、それは人の罪を用いられたのであって、それによって人の罪が正当化される訳ではありません。心をかたくなにし続けることは、大きな裁きを招くことになりますので危険です。
最近は心がかたくなになっていると感じることがあれば、聖霊の導きを求めて、素直に聴き従う者でありたいものです。それは自分自身を守り隣人を守ることになります。
2、しるしを求める
ファリサイ派の人々は主イエスを試そうとして、天からのしるしを求めました。天からのしるしとは、主イエスが救い主であることを証明するための奇跡です。「天からの」と言いますのは、「神からの」意味ですが、十戒の第三戒の「神の名をみだりに唱えてはならない」によって、「天からの」と言っています。神である主イエスに対して、試すためにしるしを求めるというのは愚かな的外れなことです。
それを、この当時に天国に一番近い人々と、自他共に思われていたファリサイ派が行っています。ニュース等で、高学歴で社会的な地位の高い人が、小学生でも分かるような愚かな失言や行動をして地位を失うことは昔からずっと続いていることです。高慢の罪は本当に人を愚かにしますので注意が必要です。
ファリサイ派の人々は天からのしるしを求めますが、3:5で実際に目の前で見ています。それ以外にも大勢の病人を癒し、多くの悪霊を追い出されていることを聞いています。そのために、客観的に判断をすれば主イエスがどのようなお方であるかは分かるはずです。
しかし彼らは客観的な判断をするつもりは初めからありません。既に主イエスを殺すことを決めています。その姿はマタイ4章の荒れ野の誘惑で悪魔が主イエスに「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ、神殿から飛び降りたらどうだ」と言って試みているのに似ています。それに対して主イエスは、「あなたの神である主を試してはならない」(マタイ4:7)と答えられました。
それに対して主イエスは、心の底から呻かれました。主イエスは7:34でも呻かれましたが、ここでは別の理由からです。ファリサイ派の人々は実際に目の前で天からのしるしを見ていますが認めませんし、人々からそれ以外のしるしを聞いても認めません。その上に試そうとして更なるしるしを求めます。主イエスが呻かれたのはそのかたくなさのためです。
そして、「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。よく言っておく。今の時代には、決してしるしは与えられない」と言われました。この御言葉には少し疑問を感じます。それは、しるしが与えられなければ、主イエスが救い主であるという確信が持てないのではないかと思うからです。
しかし12節の文章の意味はそれだけで理解するものではなく、11節と合わせて理解するものです。それは主イエスを試すためのしるしは与えられないという意味です。もし、主イエスがファリサイ派の人々の求めに応じられて、しるしを与えられたとしたらどうなるのでしょうか。
恐らく申命記13:2~6を理由にして主イエスを殺すと思います。ファリサイ派の人々は主イエスを殺すことを既に決めていますので、そのような心をかたくなにしている者には何もしても無駄になってしまいます。そして、主イエスは彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸に行かれました。
心のかたくなな者には何をしても悪い方向に行くばかりです。これは現代においても同じです。神である主イエスでさえ心のかたくなな者には関わられず、その場を去られます。それは良い方向に行くことがないからです。心のかたくなになる者が放蕩息子のように、我に返るようにと祈るものです。
しかし放蕩息子は若気の至りによって放蕩をし、我に返りましたが、放蕩をする高齢者が我に返るのは中々、難しいようです。勿論、神にあって不可能はありません。しかし、「すべての出来事に時がある」(コヘレトの言葉3:1)の通りに神の時があるのでしょう。
しかしその一方で、主イエスを信じたいと思っていて、主イエスが救い主であることの確信が欲しいので、そのためのしるしが欲しいと思う人もいると思います。そのような人にはしるしは与えられます。単なる好奇心から、「山を動かしてください」と言っても実際の山が動くことはありません。
しかし信仰の決断をするために求めるなら与えられると思います。主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(マタイ7:7)と約束されます。私自身も信じる前に確信が欲しいのでしるしを与えてくださいと求めました。またクリスチャンになってからもしるしは与えられ続けます。
それは証しというかたちで、信仰を励まし強めるために用いられます。私たちの周りの自然等を見れば神が造られたしるしで溢れています。それを天からのしるしとして認めて受け入れるか、受け入れられないかは、その人の霊性によります。
神は聖霊をお遣わしになり、私たちが天からのしるしを受け入れるように導いておられます。聖霊の導きに素直に従って天からのしるしを受け入れ、祝福の歩みをさせていただきましょう。
3、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ファリサイ派の人々は熱心に神を求め、敬虔な生き方を目指していたはずですが、いつの間にか心をかたくなにし、的外れな生き方をしてしまいました。私たちも同じようなことをしてしまいがちです。
私たちが聖霊の導きの中で、高ぶることなく、必要なことを悔い改め、神の前に謙って、御心に従って祝福の道を歩むことが出来ますようにお導きお守りください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。