「しるしを悟る」
2025年7月20日 礼拝式説教
マルコによる福音書8章14~21節
主の御名を賛美します。
1、ファリサイ派の人々とヘロデのパン種
弟子たちはパンを持って来るのを忘れました。どうして忘れたのだろうかと思います。先週の個所では、主イエスを殺すことを決めているファリサイ派の人々が(3:6)、主イエスを試そうとして議論を仕掛けました。それに対して主イエスは心の底から呻いて答えられて、その場を去られました。
その場の雰囲気は恐らく、パンのことなどを考えている場合ではなかったと思われます。そこで舟の中には一つのパンしか持ち合わせがありませんでした。その時、主イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」と戒められました。それは11~13節の話の流れからです。
ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種とはどういうものでしょうか。パン種は少しの量でパン生地全体を発酵させて膨らませる影響力を持ちます。天の国をパン種にたとえる良い意味もありますが(マタイ13:33)、むしろそれは例外で、基本的には腐敗が大きく広まる悪い意味で使われます。
ファリサイ派の人々のパン種とは偽善であるとルカ12:1は言います。確かに7:1~13等を見ますと、食事の前にきちんと手を洗う言い伝えを守っていることは、信仰深く敬虔的な感じもします。しかしその一方で、コルバン(神への供え物)と宣言をすれば、両親のために何もしないで済むというのは偽善です。
ヘロデは、6:14~29を見ますと不品行、殺人と何でもありです。しかし人目を気にして、自分が誓って一度言ったことは何としても実行するという見栄っ張りです。ヘロデは自分の目的を達成するためには手段は選ばず何でもします。マタイ16:12はパン種とは教えであると言います。
パン種は偽善にしろ、教えにしろ、広い意味では不信仰です。彼らは主イエスの救い主としてのしるしをいくら見ても、聞いても受け入れようとせず、自分の考えを貫き通し続けます。そしてそれはパン種であると言われます。パン種ということはその人たちだけの問題では済まなくなります。
パン種がパン生地全体を発酵させて膨らませるように全体に大きな影響を与えます。これは色々な組織等でもよくあることです。パン種となる人が一人いますと全体に大きな影響を与えます。しかし聖書でもパン種が良い意味で使われることが少ないように、悪いパン種の方が圧倒的に多いものです。
現代でもあるところで悪いパン種のような人がいなくなって、ほっと一安心をしていますと、それまでは余り目立たなかった人が悪いパン種の影響を受けていて同じような悪いことを引継いで行くことがあります。
良いパン種の影響は伝わり難く、悪いパン種は罪深い人間の性質に影響し易いようです。後には、彼らのパン種があっという間に広がって、主イエスを十字架に付けることになりますし、弟子たちにも影響を与えることになります。
2、パン
主イエスはファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種について戒められました。しかし弟子たちはパンを持って来るのを忘れて、一つのパンしかないことで頭が一杯です。私たちは何かのことで頭が一杯になっていますと、そのことしか考えられなくなってしまいます。
ましてや、主イエスが、「パン種に十分気をつけなさい」と戒められたので、パンについて互いに議論し始めました。恐らくは、誰がパンを持って来るはずだったのかとか、どうして忘れたのか、といった内容であると思われます。
主イエスはご自身が戒められた内容と違う方向に弟子たちの議論が進んでいることに気付かれました。そこでこの後に、「~のか」と問われる表現を八つされます。1番目は、「なぜ、パンを持っていないことで議論しているのか」と直接的な内容の問いです。主イエスはパン種のことを戒められたのであって、パンを持って来るのを忘れたことを言われているのではないからです。
2番、3番目は、「まだ、分からないのか。悟らないのか」と理解を出来ていないことを問うものです。そして、4、5、6番目は、「心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」と理解を出来ない原因を問う内容です。
それでは4:12にありました外の人々と同じであり、主イエスが戒められたファリサイ派の人々やヘロデと同じようで、主イエスが戒められた彼らのパン種の影響を受けていることになります。
3、しるしを悟る
そこで主イエスは7番目に、「覚えていないのか」と問われて、弟子たちに思い出させて導かれます。「私が五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか」と問われると、弟子たちは「十二です」と答えました。弟子たちは6:30~44の五千人の給食のことを忘れてしまったのではなく覚えています。
また、「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパン切れでいっぱいになった籠は、幾つあったか」問われると、「七つです」と答えました。弟子たちは直前の1~10節の四千人の給食のことも勿論、覚えています。弟子たちは五千人の給食も四千人の給食も覚えています。
覚えてはいますが、3番目の悟ることをせず、4番目の心がかたくなになっていました。そのことは6:51、52にはっきりと書かれています。弟子たちは五千人の給食も四千人の給食も、その出来事自体は覚えていますが、その霊的な意味は悟ることが出来ませんでした。
五千人の給食も四千人の給食も素晴らしいしるしです。しかし先週もお話しましたが、しるしはしるしそのものよりも、そのしるしが表すことに意味があるものです。買い物で大きな商品、例えば、ペットボトルの飲み物を段ボールのケースで買ったり、米等を買うと良くシールを貼られたりします。
シール自体は1円位の価値かも知れません。しかしそのシールは、このシールが貼られた品物は数千円の代金が支払われているというしるしとしての大きな意味があります。しるしだけを見るのではなく、しるしの表す意味を正しく理解し悟ることが大切です。
弟子たちが五千人の給食と四千人の給食のしるしを通して、主は本当の必要は満たしてくださることを悟っているなら、パンの持ち合わせが一つであることで議論にはならなかったはずです。これではファリサイ派の人々と似たようなものです。
ファリサイ派の人々は誰よりも旧約聖書の内容を覚えています。そして救い主がこの世に来られることを誰よりも良く知っています。そして救い主に実際に会って、そのしるしを実際に見ています。しかし心がかたくなになっているので、主イエスが救い主であることを全く悟ることが出来ません。
そして一見、信仰深く敬虔的に振舞いつつも偽善的で、救い主を殺すという的外れなことに一所懸命になっています。自分たちは聖書の教えに忠実であると思い込んでいて、まさか自分たちが聖書の教えとは正反対の方向に進んでいるとは思いも寄りません。目があっても見えず、耳があっても聞こえない状態です。
ヘロデも同じです。ヘロデは自分が周りから良く見られたい一心で、一度誓って言ったことは何があっても実行します。しかし自分の思いとは正反対に、そのかたくなさが周りから如何に愚かに見られているかということには全く気が付きません。目があっても見えず、耳があっても聞こえない状態です。
主イエスのしるしを直接に何度も見てもしるしを悟らない弟子たちは、ファリサイ派の人々やヘロデと似たような存在かも知れません。このような記事を読む現代の私たちは、このときの弟子たちは何をしているのだろうと思うでしょうか。もし自分がこのときの弟子の一人で、実際に五千人の給食と四千人の給食を体験していたら、このときにパンが一つでも大丈夫だと言えるでしょうか。
逆に、このときの弟子たちが現在のクリスチャンを見たらどのように思うでしょうか。弟子たちには元漁師もいて読み書きが出来ない者もいることでしょう。また当時は印刷時術もまだありませんので聖書もありません。弟子たちが現代の聖書を見たらその内容にとても驚くことでしょう。
天地の創造から始まって、神が行われたしるしの多くが記されています。これだけのしるしを聖書を読んで、知っていながら、その霊的な意味を悟っていないなら、現代のクリスチャンは一体、何をしているのだろうと、当時の弟子たちは反対に思うかも知れません。自分たちからすると考えられない程に恵まれているのに、悟っていないなど考えられないと感じるかも知れません。
主イエスは最後に8番目の「~のか」の、「まだ悟らないのか」と言われました。これは直接的には弟子たちに語られた言葉です。しかしこれは聖書を読むすべての人に語り掛けられる言葉です。ここにおられる多くの方は聖書通読もされて聖書の内容をご存じであると思います。
しかし私も含めて中々、悟るに遅いものです。それは自己中心等の不信仰が心がかたくなにし、目があっても見えず、耳があっても聞こえなくするからです。しかし主イエスは私たちをそのような罪から解放するために十字架に付いてくださいました。
そして主イエスを信じる者に聖霊を遣わしてくださり、聖霊の導きに従う者の心をやわらかくし、正しく見え、正しく聞こえ、悟る者と変えてくださいます。主イエスを信じてしるしを悟る者とさせていただきましょう。そして正しく見て、正しく聞いて、主の御心に生きる者とさせていただきましょう。
3、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。弟子たちは主イエスと共に歩み、実際に主イエスのしるしを間近に何度も見ていましたが悟ることが出来ませんでした。しかしそれは現代に生きる私たちも同じで、聖書を通して多くのしるしを知らされ、多くの恵みをいただいていながら悟るに遅い者です。どうぞ聖霊に働きによって心をやわらかくし、悟る者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。