「段階的な癒し」 

2025年7月27日礼拝式説教
マルコによる福音書8章22~26節
        
主の御名を賛美します。

1、段階的な癒し
一行は10節ではガリラヤ湖の西のダルマヌタの地方にいましたが、13節で舟に乗りベトサイダに着きました。本当は6:45でベトサイダに向かいましたが、そのときは逆風のために流されて6:53でゲネサレトに着いてしまいました。今回は着くことのできたベトサイダはガリラヤ湖の北にある、「漁師の町」という意味の一行のホームタウンです。

一行の到着を待ちわびていたかのように、人々が一人の盲人を主イエスのところに連れて来ました。聖書教会共同訳では盲人の性別は分かりませんが、原語では「彼」と書かれていて男性です。聖書教会共同訳では聖書を読むすべての人が盲人を自分のこととして受け止めることを考えてか、基本的に性別は明記しないようです。新改訳は原語の通りに彼と訳しています。

そして盲人に触れていただきたいと願いました。7:32では、人々は耳が聞こえず口の利けない人の上に手を置いてくださるようにと願いました。手は力の象徴ですので、「手を置く、触れる」というのは、人格的に交わり、癒しの力を行使されることを願うことです。

盲人であることは現代でも色々と困難なことがありますが、この時代はその度合いが大きかったと思われます。人々は盲人のことを思って、またこれまで主イエスが多くの病人を癒されてきたことを知っていて癒しを願ったことでしょう。

主イエスはまずは盲人の手を取って、村の外に連れ出されました。盲人は手を取ってあげなければ道が分からないということもありますが、手を取ってくださる主イエスに温かな温もりを覚えます。村の外に連れ出されたのは、癒しを人前で行うと誤解を招く可能性がありますので人目を避けられました。癒しの後には、「村に入ってはいけない」と言われていますので、この人は村の外の人のようです。

主イエスは、その両目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれました。唾を使われるのは7:23で、口の利けない人の舌に触れられたときと同じです。唾には癒しの効果があると信じられています。盲人は見えませんが、唾をつけられ、両手を置かれたその触感で、主イエスが自分に触れられたことが分かりました。

盲人はこれで自分は癒されると思ったことでしょう。主イエスが、「何か見えるか」とお尋ねになりました。すると、盲人は見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と言いました。

この盲人の言葉から二つのことが分かります。一つ目は、この盲人は生まれながらの盲人ではなく、以前は目が見えていて、途中から何からの理由で盲人になったことです。それは見えるものが、ぼんやりとではありますが、その姿が人や木であると分かり、歩くということがどういうことであるのかを知っているからです。

二つ目は、見えてはいるのですが、はっきりとではなく、ぼんやりとしていることです。人が木のように見えるというのは、かなりぼんやりとしています。偶に、誰か人がいると思って驚いてよく見てみると実は木だったということはあります。

全く見えていなかったところから少しでも見えるようになったのは有難いことですが、人が木のように見えるのは、以前は、はっきりと見えていた人にとっては、すっきりとしないものです。良く見えていたときの感覚は忘れられないものです。

そこで、主イエスがもう一度両手をその目に当てられました。すると、見つめているうちに、すっかり治り、何でもはっきりと見えるようになりました。結果だけを見ますと、めでたしめでたしです。しかし何かすっきりとはしない思いが残ると言いますか、この記事は事実であるにせよ、私たちに何を語ろうとするものであるのかと考えさせられます。

この記事は福音書の中でマルコだけにあるもので、癒しが二段階で行われる唯一のものです。人間的に考えますと、主イエスも人の子であり、一度ですべてが上手く行かないときも、偶にはあるものだと感じてしまうかも知れません。

病院等に行っても、一回目に出されたときの薬は余り良く効かず、薬を変えてもらって、二回目の薬は良く効いた等ということはあるものです。しかし主イエスは全知全能の神であり、人間とは全く異なる次元のお方です。そうであるなら、この記事はどういうものなのでしょうか。

まず第一のこととして、癒しが二段階で行われたことは、全知全能の神でおられる主イエスの側の問題によるものではありません。

2、見る
聖書を読んでいて意味が良く分からないときに考える必要のあることは、その内容を文章の流れの中で理解をするために、前後でどのような意味で使われているかを見てみることです。今日の個所で中心となっていますキーワードは、「見る、見える」という言葉で5回使われています。
「見る」ということについては少し前の18節に、「目があっても見えない」と言います。その理由は17節で、心がかたくなになっていて悟らないからです。ファリサイ派の人々は肉体的な意味では目は見えます。しかし、いくら主イエスの奇跡のしるしを見ても、心がかたくなで悟らないので霊的には見えません。

その結果11節で、主イエスを試そうとして議論を仕掛けたりします。これはファリサイ派の人々だけの問題ではありません。弟子たちも同じです。五千人の給食と四千人の給食を実際に体験して自分の目で見ました。しかし霊的に見えないので、一つのパンしか持ち合わせがないと、主イエスを信頼するのではなく、議論し始めてしまいます。

その意味で考えますと、ここでいう「見る」ということは、直接的には肉眼的に見ることを意味しています。しかし霊的な意味では、第二のこととして、霊的に見ることを指しています。そのように考えますと、この記事の現代の私たちに語り掛ける声が聴こえて来ます。すべての人はこの盲人と同じで、肉眼的には見えても、霊的には見えません。

そのような私たちを憐れみ、主イエスは私たちの両目に唾をつけ、両手を置いてくださいます。そしてぼんやりとは見えるようになります。しかしそれは人が見えても木のようであり、歩いているのが分かる程度です。

私たちは同じ信仰を持って、同じものを見ているはずなのに、なぜこれ程までに見え方が違うのだろうかと感じることがあります。それには色々な理由が考えられます。現在、置かれている環境の違い、過去の歩みの違い等も大きな影響を与えます。

しかしその一つの理由が、誰もがはっきりとは見えていないということです。見えるものは人であるという人もいれば、いやそれは木のようだという人もいることでしょう。ではどうしたらはっきりと見えるようになるのでしょうか。主イエスにもう一度手をその目に当てていただいて、見つめる必要があります。

主イエスにもう一度手を目に当てていただいた上で、それに応答して自分でも見つめて、見ようとする必要があります。それは具体的には、聖霊の導きに従って、自分の中にある心をかたくなにする、ファリサイ派やヘロデのパン種である自己中心的な思いを捨て去ることを選んで、御言を悟ることです。

7:31~37の耳が聞こえず口の利けない人が癒された後に、今日の盲人の癒しが書かれていることは大きな意味があります。

それはイザヤ35:5、6の救い主の預言が成就したことであり、主イエスが救い主であるということです。そして主イエスに触れていただき、それに応答して見つめることによってのみ、私たちは何でもはっきりと見えるようになります。はっきりと見えることは気持ちの良いものです。

3、段階的な癒しの意味
ここでは癒しが二段階で行われていますが、これは、きよめも段階的なことがあることを示していると思われます。二段階と考えますと、洗礼を受ける時が一段階目で、聖化が二段階目と考えてしまうかも知れません。しかし単純に、癒しが二段階で行われたので、きよめも二段階だけということではないでしょう。

主イエスに二度両手を目に当てていただければ、はっきりと見えるようになりますが、その状態がずっと自動的に続くという訳ではありません。一時的には、はっきりと見えるようになりましても、私たちは罪深い存在です。

そのために、いつの間にか自己中心的な思いが少しずつ出て来て、少しずつ見えなくなって行きます。そして気が付いたときには、目の中に大きな梁が入っていて(マタイ7:3)、実は見えていなかったということが起こり得ます。

そのようにならないためには、聖霊の導きに従って、毎日、御言を実践して恵みの体験を積み重ねて行くことです。御心の真ん中を歩むことが最大の喜びであり幸せであることを毎日、覚えて歩むことです。そして何でもはっきりと見えることを確認しつつ、その喜びに生き続けることです。

主イエスは全ての人がはっきりと見えて、正しい道を一致して歩み、幸せになることをお望みです。そのために十字架に付かれて私たちの罪を赦し、私たちに毎日触れるために聖霊を遣わして下さり、私たちがはっきりと見て、正しい道を歩むように導いてくださいます。主イエスによる救いときよめを感謝し、はっきりと正しく見える喜びの歩みをさせていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。盲人は主イエスに二度両手を目に当てられて、見つめているうちに、すっかり治りました。私たちの信仰も同じで、主イエスに手を当てられ続けていただくことによって、初めてはっきりと見え続けられます。聖霊の導きに従って主イエスと共に歩む者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。