幸せの始まり

野田 栄美

落葉樹が葉を落とすと、幹や枝が姿を現わします。樹木を扱う人たちは、樹形を見て良い木を選別するため、木を見極めるためにはこの季節が適していると言います。そのような目で改めて木を見てみると、葉が茂っていた時には、分からなかった幹や枝の流れが見えることが分かりました。
これは、神の御声を聴くことに少し似ているように思います。生活に追われていたり、目に見えるできごとで頭がいっぱいになっていたりすると、神が語りかけておられる声が心に届かなくなります。それは、葉が青々と茂っている時に、その木の姿が見えないことに似ています。
20世紀における有名な説教者の一人であるイギリスのD.M.ロイドジョンズ牧師はこんな言葉を残しています。「聖書によれば、幸福は、決して直接的に求めるものではない。幸福とは、いつでも何か他のことを求めた結果与えられるものなのである。」
はっとさせられる言葉です。私たちは自分が安全に過ごすことができるように、家族が幸せであるようにと、心を配ります。正に、幸せを追い求めて日々の生活をするのが人間ではないでしょうか。けれども、その生活の中には、本当の幸せは見つからないとしたら、砂の上に家をせっせと建てていることになってしまいます。
最近、朝起きると、洗濯、朝食の用意、花の水やりと次々にやるべきことがあるからと、聖書を読むことは後回していたことに気が付きました。後で読むこと自体は問題の無いことですが、私自身の心が神から離れていたことを反省しました。
そして、その日、聖書を読むこともそうですが、先ず神を大切にと心に決めて過ごしたところ、一日を終えるときに、最近味わうことのなかった活気が心にあることに気が付きました。
「先ず神の国とその義とを求めなさい。そうすれば、それらのものはみな与えられます。」(マタイ6:33)の通りだと思いました。
私たちが追い求めるべきものは、自らの幸せではなく、神の国とその義だと聖書は言います。神があなたの心を支配して、あなたの心に神からの霊をくださることを先ず求める時に、幸せがおのずと与えられるというのです。
主イエスは、それらを私たちに与えるためにこの世に来てくださいました。主イエスを喜ぶことこそ、私たちに幸せを与えるといっても良いかもしれません。年に一度、このクリスマスをお祝いすることこそ、幸せの始まりです。主イエスの誕生を、共に喜びお祝いしましょう。