「主が建てる家」
野田信行
家を建てることは、色々な労苦を必要とし、一生の内でも一大事業です。しかしイスラエルは捕囚により自分の家、神の家である神殿を失い、家を建てたことは空しい労苦なりました。
「家」は単なる建物だけではなく、家族、家庭、神の家族である教会、所属する会社等の組織等も意味します。自分の家を岩の上に建てた賢い人と砂の上に建てた愚かな人のように(マタイ7:24~27)、主を土台として主が建てた家は、風水害でも倒れません。しかし、主の言葉を土台としない砂の上の家は倒れてしまいます。主を土台として、主が建てるのでなければ、空しい労苦になってしまいます。
町を守ることについて、当時のイスラエルも見張りはしていたでしょうが、小国であり、大国のアッシリアやエジプトが攻めて来たら一溜まりもありません。主に守っていただく必要があります。これは現代では自然災害等を考えますと、人間の手に負えるものではなく、主が守るのでなければ空しい見張りになってしまいます。
「朝早く起き、夜遅く休み 苦労してパンを食べる」勤勉な姿勢自体は一つの美徳です。「有能な妻」(箴言31:15~18、27)のような生活に自己満足感を覚えがちですが、そのようなことは、「空しいことだ」と言います。なぜなら、「主は愛する者には眠りをお与えになる」のです。私たちが眠りについて休んでいる間に、主は私たちに必要な作物等を成長させてくださいます。
主は愛する者には、健康で長生きし、幸せでいられるように必要な眠りを与えてくださいます。有能な妻は主を畏れて(箴言31:30)、主の御心に従って行動しています。主の御心に従うとは、質的にも量的にも最高の奉仕を、喜びを持って主に献げられるように、主が与えてくださる必要な眠りをとることです。
家を建てる労苦はありますし、町を守る見張りは必要で、パンを食べるには働きが必要です。しかし、「主の祝福こそが人を豊かにし 人の労苦はそこに何も加えることができない。」(箴言10:22)のです。
いつも主イエスの十字架によって贖われる者であることを覚えて、主が与えてくださる必要な眠りを十分にとり、食べ物を楽しみ、主が建てられる家で、与えられる働きを喜びを持って担わせていただきましょう。