「誰が建てるのか」
野田 栄美
教育部の図書に「悪魔の格言」という本が入りました。この題名を見た時、キリスト教の本なのか疑ってしまいましたが、開いてみると読みやすい信仰についてのキリスト教の]本でした。その中に一つの格言がありました。
「 礼拝 奉仕に 献金と
マニュアルこなして一安心 」
これは、神の言葉ではありません。悪魔の格言です。行動を整えろとささやいている声が聞こえるでしょうか。けれども、外側ばかりを整えても、神は喜ばれません。心から自然と湧き出たのかを神は見ておられます。
この本の副題「逆視点からの恵みの発見」の通りに、逆の言葉を読むことで、私たちが本来はどうあるべきなのかが浮き出てきます。
今年度の聖句は詩編127編1節です。「もし、主が家を建てるのでなければ それを建てる人々はむなしく労苦することになる。」神を見失い、ただ自分のために必死に働く人々に、神はむなしいことだと語っておられます。
最近すっかり温かくなり、草花が次々に成長しています。先日、きれいな青色をして小さな花を咲かせるオオイヌフグリが群生しているのを見つけました。あまりに可愛いので写真を何枚も撮ってしまいました。聖書には、野の花のことが書かれている箇所があります。野の花は働きもせず、紡ぎもしないのに、あれほど着飾ることができているのは、そこに神がおられるからだと聖書は語ります。
神は、いつも私たちに必要なことをすべてご存じです。こんなに安心できることがあるでしょうか。必死に自分で自分のためにあくせくする生活の中に神はおられません。そのような時、神は置き去りにされています。
クリスチャンであっても同じことが起こります。毎週日曜日に礼拝に行き、奉仕をして、献金を献げる。必死にやるべきことをしているうちに、神が不在になってしまう。ただただ、自分の行動を建てあげている信仰生活になっていないでしょうか。それは神の目からはむなしい働きでしかありません。
では、何が大切なのでしょうか。それは、神に家を建てていただくことです。それは本当に素晴らしいものです。目には見えないものですが、人生を振り返った時に自分の人生が愛で満たされていたことに気が付きます。失敗だと思っていたことや、苦しみだと思っていたことが、神の手の中で意味を持ってくる瞬間を何度も目にするようになります。あなたは、神の建てあげるものを見たくありませんか。ただ神を大切にすること、それがあなたの人生を変えます。