「聖書が証しする主イエス」

2025年8月3日礼拝式説教
ヨハネによる福音書5章39~47節                                            野田栄美

① 厳しい言葉
聖書には、時に非常に厳しいことが書かれ ています。旧約聖書には残虐な歴史が語られていますし、福音書の主イエスの言葉の中にも、時に「なぜ、こんなことをおっしゃるのか」と、思ってしまうようなことが書かれています。主イエスは、十字架に掛かられる前の最後の晩餐の際に、弟子たちにこう言われました。「人の子(イエス)を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。」後に、これはイスカリオテのユダのことだったと分かるのですが、読む度に心が重くなるような言葉です。

このような言葉の数々は、何のために聖書に残されているのでしょうか。今日は、私たちが聖書をどのように読むべきなのか。聖書が語っていることを受け取るには、何が必要なのかを聞いていきましょう。

② 懐中電灯
この聖書箇所は、病気を患っていた人を主イエスが癒やされた記事の最後の部分です。この癒やしが行われた日は安息日でした。安息日は、一切働いてはならない日ですから、ユダヤ人たちは、この律法を破った主イエスを敵対視するようになりました。更に、主イエスが神をご自分の「父」と呼ばれたことから、神を冒涜したと考え、主イエスを殺そうと思うようになった場面です。

 この頃の聖書とは旧約聖書のことです。特に律法と呼ばれる、モーセの書いた5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記をユダヤ人は隅々まで研究し、解釈していました。そして、そのモーセの律法に違反したとして、主イエスを彼らは訴えています。

 彼らにとっては聖書が全ての答えであり、聖書が永遠の命を与えてくれるものだと信じていました。しかし、主イエスは、それは違うと39節でおっしゃっています。このことについて、榊原康夫先生がとても分かりやすい譬えを書いておられました。

詩編119編105節に「あなたの言葉は私の足の灯。私の道の光。」とあります。ここで神の言葉、つまり、聖書は足元を照らす光だと言っています。私たちが夜道を歩く時には何を使うでしょうか。一番身近なのは懐中電灯ですね。懐中電灯は、進むべき道が分かるように私たちの前を照らすために使います。その光によって道を見失うことなく進み、目的のゴールに到着することができます。聖書とは、この懐中電灯と同じです。主イエスという目的地にいくために、道を照らす光が聖書です。

 けれども、もし、私たちが懐中電灯の光をのぞき込んで、ただ、それを見つめていたらどうなるでしょうか。目的地にいつまでも着くことができません。それと同じように、聖書に永遠の命があると探すことは、懐中電灯を夢中でのぞき込んで、永遠の命を探すようなものです。それでは、いつまで経っても永遠の命を得ることはできません。永遠の命は、主イエスが私たちに与えてくださるものだからです。(ヨハネ3:15「それは、信じる者が皆、人の子(イエス)によって永遠の命を得るためである。」)

③ 聖書の証言
 聖書は様々なことを学ぶことができる本だと聞いたことがあります。お金儲けをするヒントもあれば、健康に過ごすためのヒントもある。主イエスがサマリアの女性と井戸の側で話をした場面は、カウンセリングの最高の見本だと読んだこともあります。確かに、聖書から様々なことを学ぶことができます

けれども、今日お読みした聖書箇所が語っていることは、聖書を何に用いることができるかと言うことではなく、聖書が何を証言するために書かれているかという一点に集中しています。聖書は、主イエスを証しするために書かれました。主イエスが神の子であり、罪からの救い主であると人が信じるように導く書物です。これは、聖書を読む時に何よりも大切なことです。もし、このことから離れてしまえば、私たちは、只、懐中電灯をのぞき込むことで終わってしまいます。

④ 人からの名誉
そして、この聖書箇所で、このような状態に陥ってしまっていたのは、まったく聖書を読んだことのない人ではありませんでした。自分は聖書を良く知っている、自分はとても詳しいと思っている人たちです。その人たちの特徴は何でしょうか。それは、44節にあるように人からの誉れは受けるが、神からの栄光を求めないということです。

私たちは普段の生活の中で、人の紹介というものを大事にします。仲の良い友だちから「あのお医者さんはいいよ」と言われれば、そこに行ってみようかなと思います。「あれが美味しかったよ」と言われれば、試してみようかなと思います。

けれども、神が主イエスをこの世に送ってくださったと聞いて、神がおっしゃるならと主イエスを信じたでしょうか。神から送られたなどとは簡単には受け入れられない。これが人の姿です。自分の頭の中で考え得ることを超えたできごとに対しては、人は警戒心を持ってしまいます。

しかし、聖書をよく読んでいる人たちが、それも、いつか神が救い主を送ってくださると待ち望んでいる人たちが、神から送られた方に気がつけない。もちろん受け入れることもできない。そのようなことが起こってしまうのはなぜでしょうか。

それは、人から受ける名誉、権力、地位などに目を向けて生きているからだと44節は言います。マタイ6:24には「あなたがたは、神と富みとに仕えることはできない。」と書かれていますが、人からの栄光を受けることを求めて生きるようになると、神に仕えることはできなくなります。

⑤ 仲介者
 それどころか、モーセの律法を隅々まで守って、永遠の命に一番近づいていると自信を持っている人が、モーセに訴えられると主イエスはおっしゃいました(45節)。モーセ5書の中の主イエスについての預言を見てみましょう。

申命記5章には、神が十戒をイスラエルの民に与えられた場面が語られています。山でモーセに石の板に書かれた十戒が与えられた時、その山は火で包まれました。その神の臨在を表わしている火と神の大きな声を聞いて、イスラエルの民は、これ以上神に近づいてしまえば死んでしまうと非常な恐れに捕らわれました。そして、モーセに神の言葉を仲介するように頼みました。神は、それはもっともだとおっしゃりモーセを仲介者として立ててくださいました。

更に、申命記18:15~22を見ると、神と人との仲介をするのはモーセだけではなく、モーセの後にも与えられると約束されています。その人を「モーセのような預言者」(15節)と呼びました。これは、主イエスについての預言でもあります。

私たちも、もし、神の声を直接聞いたならば、恐れで命がつきてしまうでしょう。そのような私たちに、神の言葉を仲介してくださるのが主イエスです。私たちは祈る時、神に直接話すのではなく、仲介してくださる主イエスの名を通して祈りをささげます。主イエスは24時間いつでも、神と私たちの間にいてくださいます。ですから、いつでも私たちは祈りをささげることができます。これこそが主イエスが十字架で私たちの罪のために命を献げてくださった目的の一つです。

「モーセのような預言者」について、更に神はこう言われています。「彼が私の名によって語る私の言葉に聞き従わない者がいれば、私はその責任を追及する。」(申命記18:19) ヨハネ5:43にあるように「神の名によって来られた」主イエスを受け入れない人々は、モーセが預言した言葉に従っていません。46節「もし、あなたがたがモーセを信じているなら、私を信じたはずだ。」45節「あなた方を訴えるのは、あなたがたが頼りにしているモーセなのだ。」というのは、このモーセの預言のことを語られています。

⑥  神への愛
 では、聖書の語っていることを聴くためには何が必要なのでしょうか。42節には「あなた方の内には神への愛がないことを、私は知っている。」と書かれているように、神への愛が必要です。

 聖書を読んで、律法を事細かに守って、それを人々に見せるように生活し、自分はよく知っているとばかりに人に教える。これは、ただ、人の前に生きる姿です。神への愛がそこにはありません。これは私たち自身の姿です。私には神への愛がありますと胸を張って言える人がいるでしょうか。少なくとも、私は違います。私は人の目を気にして、自分のことばかり考えてしまう、自分の考えが正しいと思う、そのことが染みついている人間だと分かっています。

 ですから、だれも聖書が語っている真実を見ることができないまま聖書を読んでいます。そして、ここに出てくるユダヤ人のように、懐中電灯を眺め続け、的外れな方向へ進んでいってしまいます。このような私たちがどのようにして神への愛を持つことができるのでしょうか。その唯一の方法は、主イエスから愛をいただくことです。主イエスは神の子であるのに、この世に人としてお生まれになり、十字架にお掛かりになり、黄泉に下り、復活されなければなりませんでした。そのすべての犠牲は、私たちに神への愛を与えるためでした。

⑦ 神の語りかけ
言葉にはその人の内面が現れます。神の言葉には神の御心が現れています。み言葉を人の言葉として読んではなりません。人の言葉として読む時、神の御心を見ることができなくなってしまいます。

はじめに、主イエスが最後の晩餐で「人の子(イエス)を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうが、その者のためによかった。」とおっしゃったとお話ししました。この言葉を人が言ったのならば「お前は生まれない方が良かったのだ」と、その人を裁いているように聞こえると思います。けれども主イエスは、ユダを裁いてこの言葉をおっしゃったのではありません。この言葉をその場で聞いているイスカリオテのユダに、他の弟子たちに、そして、今、これを読んでいる私たちに「私を裏切る選択は、あなたにとって生まれない方がよいというくらいのことなのだ。それ選んではいけない。私のことを信じなさい。私を通して神と語り合うことを選びなさい。神への愛を受け取りなさい。」と切実に語りかけておられます。これは、愛の言葉です。

聖書は主イエスのことを証しする本です。その主イエスとは神の愛そのものです。そして、その愛を離れては、神が語られていることを聞くことはできません。旧約聖書も新約聖書も、温かく見える言葉も厳しく見える言葉もすべてが、私はあなたを救いたい、あなたに私の愛を与えたい、こちらに来なさいと語っています。それが、聖書が証ししている主イエスのお姿です。