「あなたは、メシアです」 

2025年8月10日礼拝式説教 
マルコによる福音書8章27~30節
        
主の御名を賛美します。

1、フィリポ・カイサリア
今日の聖書箇所は短い内容ですが、1:14から始められた主イエスの福音宣教の集大成となる大切な内容です。次の31節からは主イエスは十字架に向かって進まれることとなります。

主イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリアの村々へ出かけられました。フィリポ・カイサリアは後ろの地図9「イエス時代のパレスティナ」の4Bにあり、ガリラヤ湖の北に約40キロのところにあります。この地域の支配者のフィリポは、6:17にありましたへロディアの初めの夫で、ヘロデ大王の息子です。

カイサリアはローマ皇帝のカエサルに因んだ地名で、地中海沿いの2Dにもカイサリアはあります。
フィリポ・カイサリアは、フィリポが皇帝に経緯を表しつつ自分の名前も付けた地名です。地名を敢えて書いていることには、それなりの理由があります。ここは多産の神の神殿がある異教の町です。

2、あなたは、メシアです
主イエスは弟子たちに、「人々は、私のことを何者だと言っているか」とお尋ねになりました。弟子たちは評判として、洗礼者ヨハネ、エリヤ、預言者の一人と言われていると答えました。確かに6:14、15で言われていました。洗礼者ヨハネを殺したヘロデ・アンティパスも6:16でそのように言っています。

主イエスは大勢の病人を癒し、多くの悪霊を追い出し、神の国の譬えを語り、数々の奇跡を行い、福音を宣べ伝えておられます。人々は主イエスは普通のラビのような教師ではないことは知っていて、預言者なのだろうと思っていたようです。

主イエスは弟子たちに、人々のご自分の評判を尋ねられましたが、そのようなことを気にするお方なのでしょうか。神である主イエスが人の評判などを気にされるはずがありません。それは次の大切な質問へと導くためです。

そこで主イエスは、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」と尋ねられました。この質問は弟子たち自身も問うていたことです。

4:39で主イエスが突風を静められたときに、4:41で、「一体この方はどなたなのだろう。風も湖さえも従うではないか」と互いに言っています。

弟子たちは、その後も主イエスは一体どなたなのだろうという思いを持ちつつ歩んで来ていることでしょう。この福音書の初めからここまでの内容で、主イエスは何者であるかが書かれています。弟子たちは24時間、寝食を共にして直にすべてを見聞きして来ています。

12弟子の中で最年長者と思われるリーダー格のペトロが答えました。「あなたは、メシアです。」 この個所を新改訳は、「あなたはキリストです」と訳しています。メシアなのかキリストなのか、どちらなのかと思いますが、原語のギリシャ語では、「あなたはクリストスです」となっています。

それで直訳では新改訳のキリストです。しかしキリストは、本来はヘブル語で「油注がれた者」を意味するメシアのギリシャ語の訳で、称号です。聖書協会共同訳では、クリストスが称号の場合はメシアと訳して、固有名詞の場合はキリストと訳しています。

油を注ぐことは神への奉仕のために聖別することを意味します。旧約聖書では、祭司、王、預言者などが油を注がれました。油を注がれる者は、神から選ばれ、その役割を果たすために力を与えられます。油は聖霊の象徴として考えられます。詩編23:5bは、「私に頭に油を注ぎ私の杯を満たされる」と言います。

弟子たちは4:41以降も、「一体この方はどなたなのだろう」と思いつつ、様々なしるしなどを身近に直接に見ながら、その人格に触れ、メシア(救い主)に間違いないと思ったのでしょう。答えたのはペトロ一人ですが、他の弟子たちも同じ思いであったことでしょう。

この告白がフィリポ・カイサリアへ向かう途中というのはとても象徴的です。フィリポ・カイサリアは初めにお話ししましたように、世的な支配者フィリポが皇帝カイサリアに因んで名付けた町で、異教に塗れた町です。異教に塗れた状況は、この世はどこでも、いつの時代でも余り変わらないかも知れません。

フィリポ・カイサリアは北にあるヘルモン山の麓にある町で、ヨルダン川の水源地の近くです。ヘルモン山に降り注いだ雨は地中に染み込み、フィリポ・カイサリアの辺りで水源地として地中から溢れ出し、その水は集まりヨルダン川となって流れて行きガリラヤ湖に注ぎます。

それは弟子たちの姿に似ています。弟子たちは主イエスからヘルモン山に降り注ぐ雨のように多くの恵みを注がれ続けています。その恵みは弟子たちに染み渡って行き、このフィリポ・カイサリアの水源地の近くに来たときに、水源地から溢れ出る水のように、「あなたは、メシアです」と告白するように導かれました。

この告白は水源地の水のように初めはちょろちょろとした流れかも知れません。しかしその水は集まって行き、ヨルダン川のような大きな流れとなって行き、ガリラヤ湖に注ぐようになります。これはこのときの弟子たちだけのことではありません。現代を生きる私たちも同じです。

私たちが生きている地域、時代もフィリポ・カイサリアと似たようなものかも知れません。そして色々な人が主イエスについて、教会について、聖書について様々なことを言うかも知れません。また他のクリスチャンは、「主イエスは、メシアです」と告白していることでしょう。

他の人の考えは初めは参考の情報として大切かも知れません。しかし他の人の考えはその本人のものであり、私たち自身には直接は何の関りもありません。問題はここにありますように、あなたは主イエスを何者だと言うのかということです。この答えを出すためには、ヘルモン山に降り注ぐ雨のように、自分が多くの恵みを主イエスから注がれ続けていることを正しく知る必要があります。

そして主イエスに心を開いて見つめる者は、聖霊に満たされ油を注がれて、主イエスに対して、「あなたは、メシアです」と告白するように導かれます。そしてこのことは一度だけ告白すれば良いことではありません。そのように言いますと、洗礼のときに一度だけ告白すれば良いのではないのかと思われるかも知れません。

他の人の前で公けに告白することは一度だけで良いかも知れません。しかしプライベートでは毎日、心から告白しても良い言葉です。ここではきちんと信仰告白をしたペトロですが、直ぐ後の32節では、メシアの言われることを聞かず、自分の考えで動いてメシアに叱られてしまいます。

3、誰にも話さないように
ペトロの信仰告白に対して主イエスは、ご自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められました。主イエスは26節でも、癒された盲人に対して、「村に入ってはいけない」と言われ、ご自分のことを誰にも話さないようにされました。それはメシアに対する誤解があるからです。

それは弟子たちも同じです。ここで、「あなたは、メシアです」と正しく信仰告白をしたペトロであり、弟子たちですが、それは24節で一度、主イエスに手を置いていただき、少し見えるようになった盲人のようです。少し見えるようにはなりましたが、まだはっきりとは見えていません。

この当時、メシアはダビデの子として生まれ、ダビデのように軍事的に強い指導者として、ローマの支配から解放してくれる人物と期待されていました。その期待は人々も弟子たちも同じです。主イエスが十字架で殺されて復活されるなどとは思ってもいないことです。

そのために人々は主イエスは預言者であるとは思っていましたが、メシアであるとは思っていなかったのかも知れません。しかし、主イエスがメシアであるという話が広まってしまうと、主イエスの御心とはまったく違うかたちで、軍事的な指導者として祭り上げられてしまう可能性があります。

しかし主イエスは人々が期待するようなそのようなことをなされるつもりはまったくありません。そこで主イエスはメシアであることを誰にも話さないように戒められました。しかしその事情は現代ではまったく異なります。

私たちはメシアがどのようなお方であり、何のためにこの世に来られ、何をされたのかを、すべて知らされています。その意味でも本当に多くの恵みが与えられています。主イエスはすべての人の救いのために十字架につかれ、三日目に復活され、信じる人をすべて救われます。

主イエスが私たちを救ってくださるメシアです。このことを信じて救われましょう。そして信じた人はすべての人にこのことを伝える者とさせていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。ペトロを初めとする弟子たちは主イエスに恵みを注がれ、「あなたは、メシアです」という信仰告白に導かれました。しかしまだ良く分からないこともありました。それは私たちも同じです。

分からない中でも、私たちに恵みを注いで救ってくださる主イエスがメシアですと心から告白し、聖霊の導きに従って歩む者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。