「私は望む、清くなれ」

 2025年8月17日 礼拝式説教 マタイによる福音書8章1~4節  (並行箇所 マルコ1:40~45、ルカ5:12~14

                                         勝田台キリスト教会 竹田広志牧師                                                                  

聖書教会共同訳見出し「既定の病を患っている人を清める」
私たちの人生において、「病」に罹るということは、大きな試練です。身体に限らず、心においても、社会的な関りにおいてもそうです。重い病を患ってしまいますと、ただ痛みに耐えなければならず、何もできなくなってしまいます。「健康」であることの有難さを深く感じる時でもあります。
イエスはその生涯の中で、多くの病の中にある人々を癒し、悪霊につかれた人を解放されました。この箇所に続いて、マタイ8章、9章には、イエスが病人を癒し、悪霊を追い出された事が次から次へと書かれています。イエスは言葉だけではなく、私たちの人生に力ある業を為されるお方です。生きておられる主、イエスは、私たちに病の「癒し」と悪しき力からの「解放」を与えて下さいます。

1、病と罪、悪霊との関わり
どうして人は病気になるのでしょうか。先天性の疾患、ウイルス、細菌、器官の疾患、有害物質、老化、栄養分の不足、生活習慣の悪さ、過労、ストレス、現在の医療における知識で、理由を上げたら切りがありません。
聖書の時代の人々は、病に罹るのは罪を犯したから、気が狂ってしまうのは悪霊によると意味づけて考えていました。ウイルス、細菌が人の身体を犯すことを知らなかった時代です。もちろん、病は本人が罪を犯したとか、誰かの罪の為ではありません。心が病むのも悪霊によるものでもありません。しかし聖書は、人間は罪ある者である故に病にかかり、死ななければならないと説明しています。そして確かに、悪しき力はこの世に働きかけており、私たちを悪しき道へと誘います。聖書を通して、病と罪、悪霊の働きには深い関わりがありことを知ります。
目に見える肉体的な病は、目に見えない霊的な罪の象徴です。イエスの成された解放・癒しは、ご自身が、その根本である「罪からの救い」をもたらす救い主であることを示しています。病を癒されること、悪霊を追い出されるイエスの御業は、「罪を赦す者」であるしるしなのです。
何度も言いますが、病は本人が罪を犯したとか、誰かの罪の為ではありません。しかし聖書は、人間は罪ある者である故に病にかかり、死ななければならないと、教えています。私たちの人生に遭遇する病・死は、罪、悪霊の働きと深い関わりがあります。
聖書の言葉にこのようにあります。「欲望がはらんで罪を産み、罪が熟して死を産みます」(ヤコブ1:15)「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。(ローマ6:23) ローマ人への手紙は、罪と死の関係と共に、キリストと命の関係に注目しています。

2、規定の病について
イエスの時代に 最も社会的な偏見の下に置かれていたのは「既定の病、ツァラアト、重い皮膚病」でした。レビ記13章~14章にこの病に関する規定があります。「自分は汚れた者です」と叫んで自分の周りに人が来ないようにしなければならず、町に住めず、社会的に隔離された生活を強いられていました。その穢れの故に近づいてはならず、触れてはならないというとんでもない烙印がこの病には押されていました。
この病はいくつもの苦痛を伴います。
・ 肉体的苦痛(症状としては、自分の身体が、先端から醜く腐っていく病気です。容姿が崩れるいきます)  
痛覚の消失があり、非常に危険な状態になります。無自覚の危険性。
* 木の枝が足に刺さっても、刺さっていることに気づきません。(恐ろしいのは罪に無自覚であること)
・ 宗教的苦痛(病の癒しが「清め」と呼ばれます。神に打たれた者、穢れた病気とされていました)
・ 社会的苦痛(隔離生活を強いられ、家族と一緒に暮らせません。)(:4) 実際は伝染性は低い病です。
・ 経済的苦痛(仕事はもちろんできません)
1871年、医師であるハンセンによって、細菌学から診断できるようになり、原因はらい菌、菌によるものと判明。神に打たれた者(俗説)、穢れた者に終止符が打たれます。不治の病であった既定の病に、特効薬(プロシン、1947年)が開発されました。らい菌による症状の進行を抑える薬です。
1907年日本にもこの患者が発見され、1929年には強制入院。1931年(昭和6年)には「終身強制隔離政策」「らい予防法」が法に定められます。1907年から続いた「隔離政策」は、何度も裁判を争って、1996年(平成8年)「らい予防法」廃止にようやく至ります。
既定の病は、菌によるので確かに感染力はあります。しかし、エイズやコロナと同じく、しっかりと予防、対処をすれば感染することなく、不治の病ではありません。今日本においては「既定の病」に発症事態がほとんとありません。* 隔離政策をとっていた療養所は、現在日本で13残っています。東京聖書学院のある東村山に、この規定の病の方々が療養されている国立療養所多摩全生園(ぜんしょうえん)とい施設があります。聖書学院の人たちはよく慰問していました。

3、規定の病を清めるイエス
既定の病に冒されている人が突然イエスに近寄り、ひれ伏して「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります。」と言います。大勢の群衆の只中で、規定の病の人がイエスの前に現れましたので、人々はおそらくさっとその場から身を引いた事でしょう。「どうして、この人はこのような大勢の人がいる場所に出て来たのか…」
群衆が注目する中で、イエスは驚くべき事をされます。近づくだけで汚れると恐れられていた病気であるのに…人々の見ている前で、彼にご自身の手を伸ばされるのです。
「イエスが手を差し伸べてその人に触れ」られます。穢れた者として、人から遠ざけられていた彼の身体にイエスは優しく、愛情をもって触れられるのです。私はこのイエスを信じます。
そして言われます「私は望む。清くなれ」。「たちまち、規定の病は清められた。」
 既定の病は何か特別な病ではありません。しかし、知ってください。既定の病を清められるイエスは、私たち罪・穢れを清めるお方です。私たちがどんなに罪深く、穢れていても、それを忌み嫌わずに、そこに御手を触れてくださり、清めてくださるお方であることを知ってください。
私の罪を清めるお方は、私の罪を癒し、清める為に十字架で血を流し、命を捨てて下さいました。私のあなたの罪を清めるお方は、キリスト・イエス以外に、誰もいません。

「祭司に体を見せ、規定の病が清められたことを証明しなさい」(社会的復帰)
既定の病は決して穢れた病気ではありません。しかし、私たちが知りますのは、イエスは、人間の最も穢れたところ、誰も見たくも触れたくもないところに、御手を伸ばして触れ、清めて下さるお方だということです。
人を穢し、肉親を引き離し、友人を失い、人々を遠ざけるのは、規定の病ではありません。私達の内にある罪、穢れではないでしょうか。
ガラテヤ5章19節からこのような言葉があります。肉の働きは明白である。不品行・穢れ・好色 偶像礼拝・まじない 敵意・争い・そねみ・怒り・党派心・分裂・分派・ねたみ 泥酔・宴楽…。これらの罪は私達の内側を腐らせていき、私たちの周りも、社会をも腐らせていきます。そして、それは、ついに永遠の死に至らせます。確実に死に至らせる恐ろしい病いとは、私たちの内にある罪です。あなたの罪は清められましたか。あなたの人生と、将来を蝕む、あなたの内にある罪の解決はできていますか。
癌よりも恐ろしいのは、私たちの内に無痛覚であっても、確かにある罪です。あなたの罪は解決されていますか。癒されていますか。取り除かれていますか。それは、永遠の死に至らせる病です。
既定の病を清めるイエスは、私達の罪を清めることのできるお方です。
今日もイエスは、十字架の釘跡を私たちに見せ、私はあなたの罪を赦し、清めるために、身代わりとなって「あなたの為に十字架で命を捨てた」と語ってくださいます。十字架刑の傷跡のあるイエスの聖い愛の御手は、触れる者の罪を清めます。どんな名医も薬も、私達の内に巣食う罪を取り去ることはできません。イエスは私たちの罪を取り除き、私たちの罪を清めることができるただおひとりの、唯一無二の医者です。 
ひれ伏して主に求めましょう。「私を清くしてください」。
イエスは手を差し伸ばして、私に触れて、今日、宣言されます。
「わたしは望む。清くなれ」。