「創造者の御思い」
2025年10月5日礼拝式説教
マルコによる福音書10章1~12節
主の御名を賛美します。
1、離縁について
主イエスは、そこである、9:33のカファルナウム(ガリラヤ湖畔の町)を立ち去られます。エルサレムに向けて、今日のところでは、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側へ行かれました。これはヨルダン川の東側と考えられます。これはフィリポ・カイサリアで湧き出た水が流れて行くのと同じルートです。
群衆が主イエスを慕って、また集まって来ましたので、主イエスは再びいつものように教えておられました。しかし主イエスは、これがその地域の人たちに対しては最後の教える機会になるという思いも持っておられたことと思います。
そこにファリサイ派の人々が近寄って来ました。ファリサイ派は自分たちの言い伝えに従わない主イエスを、3:6で殺すことを既に決めています。そこで執拗に主イエスを付け狙って試そうとします。ファリサイ派は自分たちが正しいと思うなら、自分たちがすることだけを一生懸命にすれば良いのであって、他人を試したり妨害を行う必要はありません。
嫉妬や妬みに取りつかれている人は、いつの時代にもいて、余計なことに時間や労力を要して、他人に迷惑を掛けますので困るものです。そして、「夫が妻を離縁することは許されているでしょうか」と尋ねます。離縁は法律用語的には養子縁組を解消することです。この当時は結婚をすると夫の家に入りますので離縁と言っていると思われますが、夫婦関係を解消する離婚と同じ意味で使われています。
ファリサイ派は答えを知っていますが、これは主イエスを陥れるためのものです。ファリサイ派は何を企んでいるのでしょうか。今いる場所はペレヤと考えられます。この地域の領主は6:14のヘロデ王で、ヘロデ大王の息子のヘロデ・アンティパスです。ヘロデは自分自身も結婚していましたが妻と別れて、自分の腹違いのお兄さんであるヘロデ・フィリポの妻のへロディアと結婚をしました。
ヘロデとへロディアはそれぞれ既に結婚をしていて伴侶がいました。しかし先週の9:43~47にありましたように、既婚者であるにも関わらず、相手を目で見て、足を使って近づきました。それは先週の表現を使いますと、自分を律する塩気がありません。それは自分をつまずかせると共に、自分の元の伴侶をつまずかせ、平和を乱す行いです。
6章では洗礼者ヨハネが、「兄弟の妻をめとることは許されない」と言っていたために、牢獄に捕らえられて、首をはねられました。ファリサイ派は主イエスを陥れて、洗礼者ヨハネの二の舞にすることを考えていたと思われます。しかし全知全能の神である主イエスはファリサイ派の魂胆をすべてご存じです。
主イエスは、「モーセはあなたがたに何と命じたのか」と問い返されます。質問に対して質問で返すことは、この当時のラビ(教師)が良く行う手法です。彼らは、勿論、そんなことは知っているとばかりに、申命記24:1に基づいて、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言いました。
ファリサイ派は自分で答えていますので、初めから答えを知っていたのは明らかです。主イエスはファリサイ派に、この答えを自分の口で言わせるために質問をされました。しかしここで終わりますと、離縁状を書けば離縁は許されるという結論になります。
しかし主イエスは、申命記24:1で神がモーセを通して語られた、その御思いは、「あなたがたの心がかたくななので、モーセはこのように戒めを書いたのだ」と言われます。当時は圧倒的な男尊女卑の社会で、離縁を言い出せるのは男性からだけで、女性からは言えず、女性はただ離縁されるだけです。
離縁となる理由は、「彼女に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったとき」です。それは具体的にはどのようなことかということで、大きく二つの考えがあります。主イエスの時代に、厳格なシャンマイ学派は、恥ずべきことは、「淫らな行い」(マタイ5:32)のみと考えます。
一方で自由なヒレル学派は、どんな理由でも、恥ずべきことで気に入らなくなった、と言えば良いと考えます。例えば料理が口に合わないと言って、それは恥ずべきことで気に入らないとしたようです。人間は自分に都合の良い方を選びますので、ヒレル学派の考えが広まりました。
申命記24:1は弱い立場の女性を、自分勝手な夫から解放して、次の再婚の権利を与えるためのものです。日本に限らず離縁・離婚の数は増えているようです。クリスチャンでも離縁を経験する方もおられます。神は杓子定規に何でも一律に決まりを押し付けるような律法主義のお方ではありません。
結婚生活が残念ながら実質的に破綻してしまい、回復が不可能な場合に、神は当事者の苦痛を和らげるために離縁を許されます。現代でもDVや薬物依存症等で、早く離縁をしないと命に関わる危険な場合もあります。神は憐れみ深いお方ですので、離縁したということに後ろめたさを覚える必要はありません。
主イエスは5回の離縁を繰り返したサマリヤの女を救いに導かれます(ヨハネ9:18)。何よりも主イエスはすべての人の罪のために十字架に付かれ、信じる者のすべての罪を赦されます。
2、創造者の御思い
主イエスは離縁の話に留まらず、結婚についての、そもそもの御思いについて教えられます。創世記2章で、創造者(主)である神は、人を男と女にお造りになられました。そして創世記2:24の、「こういうわけで、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」と言われます。
だから、もはや二人ではなく、一体です。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはなりません。この箇所は結婚式で良く読まれる御言葉です。ここで、「人」という言葉には二つの意味があります。一つ目は、結婚をする当事者です。夫からも妻からも離してはなりません。
そして二つ目は、結婚をしている夫婦の周りの人たちも夫婦を離してはなりません。主イエスがここで語られたことは聖書に書かれていることですので、ファリサイ派は何も言い返すことは出来ません。しかし主イエスは、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と言われています。
それはヘロデとヘロディアがそれぞれの結婚相手と別れて、既に結婚をしている相手と新たに結婚をしたことは間違いであると、洗礼者ヨハネが言っていたのと同じです。しかし主イエスが今、そこまで言ってしまうとここで混乱になってしまい、神の計画が妨げられてしまいますので言われません。
人によって離されるのではありませんが、夫婦が同時にこの世の人生を終えて天に召されることはまずありません。ほとんどの場合は、どちらかが先に天に召されて、一人がこの世に残されることになります。配偶者の死はこの世の人生の中で、一番大きなストレスと言われます。それは一体となった体が引き裂かれる大きな痛みです。そのような痛みの中におられる方々に主からの慰めをお祈りいたします。
3、姦淫の罪
「離縁状を書いて離縁することを許した」と言われつつ、その後に、「人は離してはならない」と言われ、弟子たちは混乱をしたのか、家に戻ってから、再びこのことについて尋ねました。すると主イエスは、「妻を離縁して他の女と結婚する者は、妻に対して姦淫の罪を犯すことになる」と言われます。
ヘロデはアラビヤの王の娘と結婚をしていました。しかしへロディアと結婚をするためにアラビヤの王の娘と離縁しました。ヘロデはアラビヤの王の娘との結婚によって一体となっていますので、離縁して、へロディアと結婚したことは、アラビヤの王の娘に対する姦淫の罪であるとはっきりと断言されます。
また、「夫を離縁して他の男と結婚する者も、姦淫の罪を犯すことになる」と言われます。へロディアも夫のヘロデ・フィリポを離縁して、ヘロデ・アンティパスと結婚したことは姦淫の罪です。主イエスは、これらのことを弟子たちに神の御思いとしてはっきりと教えました。
今日の聖書箇所も中心構造になっています。2~5節が「離縁について」、その対称となる11、12節は「離縁は姦淫の罪」、大切な中心は8、9節の「結婚の奥義」の内容になります。離縁の問題は昔から途切れることなく、ずっと続いている大きな問題です。
先週の内容の流れから見ましても、小見出しの、「罪への誘惑」の大きなものは、今日の「姦淫の罪」であり離縁に至ります。有名人のスキャンダルは、昔からこの種のものが圧倒的に多く、そしてなくなりません。また聖書で姦淫という場合は、男女間の姦淫を通して、神への姦淫を意味します。
それは真の神から離れて、神以外のものと神よりも親しくなることです。それは異教の神であったり、お金、財産、権力などを神より優先して偶像化することです。一番大きな問題はこの神への姦淫です。神への姦淫は人への姦淫と続くことになります。
この後は、「子どもの祝福」の記事に続きますが、「子どもの祝福」を妨げる大きな原因の一つが姦淫の罪による離縁です。姦淫の罪への誘惑が、離縁を引き起こし、子どもの祝福を妨げます。これは聖書の時代からずっと続いていることであり、残念ながら今後も続いて行くことでしょう。
それは人間の力では解決が不可能なのだからと思います。唯一の解決方法が9:49の、火で塩気を付けることです。私たち人間を造られた創造者(主)である神は、人間の罪深さを十分にご存じです。そして私たちが罪の誘惑に弱いこともご存じです。
そのような私たちの罪を赦すために、身代わりとして主イエスを十字架に付けられました。そして主イエスを信じる者の罪をすべて赦してくださいます。それだけではなく、私たちに聖霊を遣わしてくださり、聖霊の力によって、罪への誘惑に打ち勝つ力を与えてくださいます。神が与えてくださるこの恵みを感謝して受け取らせていただきましょう。そして神の子として、正しく、喜びに満ちた人生を歩ませていただきましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。聖書の時代から離縁はずっと続いています。人間は罪深い存在であり、離縁の中には、決して本人が望んでいたのではなく、様々な事情によりやむを得ない場合もあります。いずれにせよ、離縁は当事者、また子どもの心にも大きな心の痛みを与えるものです。そのような痛みの中にある方々の心をお癒やしください。
私たちは自分の力では創造者の御思いに生きることは出来ません。主イエスを信じて、与えられる聖霊の力によって御思いに生きる者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。