「神には何でもできる」 

2025年10月12日礼拝式説教
マルコによる福音書10章17~31節
     
主の御名を賛美します。私たちは幼い時、若い時から何かをして上手く行くという成功の体験を重ねることは大切なことです。若しくは例え上手く行かなかったとしても、自分がしたことを褒めて貰って励まされることは大切です。それによってまた次の事に積極的に取組もうという意欲が生まれて来ます。

しかし成功体験と同時に自分を含めて人間の限界を知り、人間は全能ではないことを知ることは大切です。そうでないと高慢になって、自分は何でも自分の力で出来ると勘違いした人になってしまいます。

1、財産を持つ者との問答
13~16節は幼児祝福で何度か扱っていますので今回は飛ばしました。今日の場面で主イエスが道に出て行かれると、ある人が走り寄ってきました。この人はどんな人でしょうか。22節に、「彼」とありますので男性で、たくさんの財産を持っています。

並行記事のマタイ19:22では「青年」と呼ばれ、ルカ18:18では「議員」と呼ばれますので、若くて、社会的な地位もある人です。若くして財産も地位もあるのですから、成功体験を積み重ねて来て自分に対する自信もあったことでしょう。

主イエスに対して、ひざまずいていますので、とても謙虚で真面目な感じがします。そして、「善い先生、永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいでしょうか」と尋ねます。これまでこの人は財産と地位を手に入れるのに多くの努力をして来たことでしょう。

何かを手に入れるためにはそれなりの努力が必要だと思っています。それで永遠の命も何か努力をしてその対価として得るものと思っています。そこでそのするべき何かとは何ですかと質問します。自分なら何を言われても出来ると思っているようです。

しかし、行いによって永遠の命を受け継ぐことはできません。前の段落の子どもが素直に主イエスのみもとに来て受け入れられるのとは正反対の姿です。子どもの記事の直ぐ後に、この記事があるのは比べて強調するためです。

18節の主イエスの御言葉は意味が分かり難い感じがします。主イエスご自身も神ですので「善い」お方ですが、ここでは父なる神の善さを強調する意味と、ご自身が神であることをここでは公けにされない意図が含まれているのかも知れません。

人が間違った考えをしている時に導くには色々な方法があります。導く相手によって最善の方法を選ぶ必要があります。一つの方法は、間違った考えを止めるのではなく、進めて行くと、どうしても無理だということに本人に気付かせる方法です。今回主イエスはその方法を取られます。

そこで、『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父と母を敬え』という戒めをあなたは知っているはずだ」と言われます。十戒の後半の6つの人間関係の戒めです。第6から10の戒めは実際の行いとしては多くの人は守っていると思います。

しかし主イエスはマタイ5:28で、それらの戒めは実際の行いはしなくても心の中で思っただけでも戒めに違反していると言われます。その意味では守れる人はひとりもいません。また、「父と母とを敬え」については、7:11のコルバン(神への供え物)のことを言っています。あなたはたくさんの財産を持っていますが、父と母を敬っていますかと問いかけられます。

するとその人は、「先生、そういうことはみな、少年の頃から守ってきました」と言います。確かにファリサイ派の考える表面的行いでは守っていることになるでしょう。しかしそもそもその人が「永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいでしょうか」と主イエスに尋ねました。

それは自分で永遠の命を受け継いでいないことを知っているからです。逆説的ですが、本人が永遠の命を得ていないと思っていることが、本当の意味で戒めを守っていないことを表しています。本当の意味で戒めを守っているのであれば、それは永遠の命を受け継いだ者が、その命に基づいて初めて守れるものであり、永遠の命を受け継いでいる確信もあるはずです。

自分が永遠の命を受け継いでいないと気付いていること自体は、ファリサイ派より良い状況にあります。そこでその人は「何をすればよいでしょうか」と尋ねます。とても素直で正直な人です。主イエスはその人を見つめ、慈しまれました。「慈しむ」と訳されている言葉は、「愛する」という意味もある言葉です。

主イエスは正直で勤勉なその人を愛されて導かれます。そして、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい」と言われます。

19節の十戒の第6~10の戒めを一言で纏めますと、12:31の重要な第二の戒めである、「隣人を自分のように愛しなさい」になります。21節はその究極的な行いです。彼はこの言葉に顔を曇らせて、悩みつつ立ち去りました。

これはたくさんの財産を持っている人には厳しい言葉です。この主イエスの御言葉を現代のクリスチャンはどの様に考えれば良いのでしょうか。私たちも多少なりとも財産の様な物を持っているかもしれません。それらは全部、売り払って貧しい人々に与える必要があるのでしょうか。

そうではありません。それでは戒めを守ることによって永遠の命を受け継ごうとしたこの人と同じ間違いを犯してしまいます。主イエスはこの人に何をお伝えしたかったのでしょうか。それはただ永遠の命を受け継ぐのは、自分の力で戒めを守ることではないということです。

主イエスはこの人に、十戒の第6~10の戒めとそれに基づく行いを命じられました。この人は若くして財産と地位を築いた賢さがあります。それで主イエスはこの人に自分の考え方の間違いに気付かせるためにこの様なことを言われたのだと思われます。

2、神にはなんでもできる
続けて主イエスは弟子たちに、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われ、弟子たちは驚きます。これは当時の常識とは違っていました。当時、財産のある者は神に祝福されていると考えられていました。しかし主イエスはこの世の常識を覆されます。

たくさんの財産を持っていても、神の国に入るのが難しいのならとんでもないことです。ただ財産を持っていることが良くないことなのではありません。財産はたくさん持っていても問題はありません。ただ財産に執着をするようになり神よりも大切になってしまうことは問題です。

十戒の第二戒の偶像礼拝禁止の偶像とは神以外のものを第一とすることです。いくら財産をたくさん持っていても神を第一とするなら何も問題はありません。しかし私たちは、「神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)のです。私たちはどうしても持っている物に心を奪われがちです。その意味で、財産のあることは誘惑に陥り易いということです。

主イエスはさらに「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われます。大きな動物であるらくだが針の穴を通るのは全く不可能です。弟子たちはますます驚いて、「それでは、誰が救われることができるのだろうか」と互いに言います。

主イエスは先程の人と同じように弟子たちを見つめられました。主イエスは決して無理を押し付けるような意地悪なお方ではありません。先程の人にもきちんとヒントを与えておられます。永遠の命を受け継ぐための戒めを言われた時に十戒の後半の戒めだけを言われました。

十戒の後半を倫理の戒めとして自分の力で守ろうとしても実行は不可能です。これは何を意味しているのでしょうか。物事には順番があります。平仮名もカタカナも読めない子どもが本を読むことはできません。同じ様に十戒の第1~4の戒めを守れない人が、その後の戒めだけを守ることはできません。

十戒の後半の戒めは前半の神との正しい関係を築く者に、聖霊の力によって守れるようにされるものだからです。十戒の前半の戒めを一言で纏めますと、12:30の重要な第一の戒めである、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」です。

そしてこの第一の戒めも人が自分の力で守ることは出来ません。そこで主イエスは、「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ」と言われます。十戒を中心とする律法を本当の意味で守ることは人にはできません。しかし主イエスを信じることによって、聖霊の力をいただくことによってできる者へと変えられて行きます。

3、永遠の命を受ける
ここでペトロが主イエスに、「このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました」と言いだしました。並行記事のマタイ19:27ではペトロはさらに、「では、私たちは何をいただけるのでしょうか」とまで言っています。お調子者のペトロは恥ずかしげもなく本音を口にしてくれるので、私たちにも話しが分かり易くなって有り難いものです。
主イエスは、「私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は誰でも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を百倍受ける」と言われます。これは一軒の家を捨てたら数的に百軒の家を受けるという意味ではなく、質的な意味です。

家を捨てて従った弟子たちは行く先々の場所で、「家」と呼ばれる場所が与えられて、もてなされています。そしてクリスチャンは神の家族として多くの兄弟姉妹が与えられます。さらに来るべき世では永遠の命を受けると約束されます。

今日の聖書箇所も中心構造になっています。17~22節が第一段落で、永遠の命を受けることを求めますが財産で躓いた人、その対称となるのが28~30節の第三段落で、新改訳では28節から別の段落にしています。第三段落は第一段落と正反対の、財産などを捨てて永遠の命を
受ける弟子たちです。

そして大切な中心は、永遠の命を受けることは人の力ではできませんが、神の力によってできるということです。ペトロを初めとする弟子たちは29、30節の主イエスの御言葉を聞いてとても喜んだことでしょう。しかし話はここで終わりません。

31節の、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という逆転が起こります。「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」ことの意味と具体的な例は、この御言葉が2回繰り返されている間に挟まれた、マタイ20:1~16に「『ぶどう園の労働者』たとえ」がありますので、後でお読みください。

すべてを捨てて主イエスに従い、永遠の命を受ける者は後になることなどは気にしないでしょう。永遠の命を求めていた人の答えはここにあります。私たちはたくさんの財産を持つ人には、はっきりと知らされなかった答えをここで教えられていますので恵まれています。

永遠の命という恵みは、私たちの罪の赦しのための主イエスの十字架の死という尊い犠牲の上に成り立っています。聖霊の導きに従って、この恵みを感謝して受け取らせていただきましょう。そして既に受け取っている方は、この恵みを伝える者として用いていただきましょう。

4、祈り
父なる神さま、私たちは聖書に書かれている教えや戒めを自分の力で守ることは出来ません。しかし神には何でもできると約束され、聖霊をお遣わしになり、力を与えてくださいますから有難うございます。すべての人が主イエスを受け入れ、永遠の命を受け継ぐことができますようにお導きください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン