「皆に仕える僕」 

2025年10月19日礼拝式説教 
マルコによる福音書10章32~45節
        
主の御名を賛美します。

1、3回目の死と復活の預言
主イエスの一行は、9:33のカファルナウム(ガリラヤ湖畔の町)から10:1で立ち去って、エルサレムへ上る途上です。10:46でエリコに来ますので、まだペレア(地図9:E4)の辺りと思われます。主イエスが先頭に立って行かれるというのは、決死の覚悟の表われのようです。

その主イエスの普段とは違う様子に弟子たちは驚き、従う者たちは恐れました。並行記事のマタイ20:20にはゼベダイの息子たちの母が出て来ますので、そのような人たちが従う者たちのようです。主イエスは12弟子に対して、8:31の1回目の死と復活の預言、9:31の2回目の死と復活の預言に続いて3回目の死と復活の預言をされます。

今回は詳しく具体的な預言の内容になっています。弟子たちはこの預言をどのように受け止めたのでしょうか。並行記事のルカ18:34は、「十二人は、これらのことが何一つ分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである」と言います。

この時点では意味が隠されていて、主イエスの復活された後に弟子たちが思い出すことが御心のようです。私たちも親などが生前に言っていたこと、していたことなどをそのときは余り良く理解が出来なかったけれど、死後になってその意味が分かるようになることがあります。

現実的には、主イエスはよく譬えを用いて話をされていましたので分かり難い部分はあったと思います。人々は、救い主がローマの支配から解放してくれることを期待していました。弟子たちも今や都であるエルサレムに上る途上であり、何はともあれ、三日後に復活するとも言われているので、いよいよ主イエスが王になるときが近づいたと感じていたのかも知れません。

2、ヤコブとヨハネの願い
そこでゼベダイの子ヤコブとヨハネの兄弟が進み出て主イエスに、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と内容を言わずにお願いをします。主イエスは全能のお方ですので願いごとの内容はご存知ですが、敢えて、「何をしてほしいのか」と聞かれます。

これは何かを言う前に、自分でそのことを良く考えてみなさいというような思いが込められているように思えます。しかし二人は主イエスが聞いてくれると思ったのか、「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください」と言います。

主イエスの左右に座るということは、主イエスの次に偉い地位を約束してくださいという願いです。これは世的な願いであり、サラリーマンの出世争いなどに出て来るような台詞かも知れません。主イエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」と言われます。

杯と洗礼は、33、34節の受難と死、十字架で流される血などを意味します。ここの御言葉の洗礼の意味から、「新入社員の洗礼」のような表現が使われるようになったと思われます。しかし彼らはそのような意味は分かりません。主イエスがこの世の王になられるときに、一緒にその杯を飲み、洗礼の儀式を受ける位に考えたことでしょう。

それで喜んで、「できます」と言ったのかも知れません。主イエスは、「確かに、あなたがたは、私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることになる」と言われます。彼らとしては、これは自分たちの願いが受け入れられたのではないかと思って喜んだかも知れません。しかし主イエスが言われたのは受難のことです。

後に十字架の死から甦られる主イエスに出会うヤコブとヨハネは、本当の意味で主イエスの飲む杯を飲み、洗礼を受ける者へと変えられます。ヤコブはヘロデ王の手によって殉教し(使徒12:2)、ヨハネは迫害によってパトモス島に流刑にされます(黙示録1:9)。

ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。なぜ腹を立て始めたのでしょうか。二人のしたことが、自分に関心の無いことなら腹を立てることもないはずです。腹を立てたのは、本当は自分もしたいことを、二人に出し抜かれてされたからです。12弟子は9:34にありましたように、皆が自分が偉くなることを求めていました。

3、皆に仕える僕
そこで、主イエスは一同を呼び寄せられました。主イエスが呼び寄せられるときは、大切なことを教えられるときです。そして、「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。」と言われます。

この世はそのようなことが多いのが現実です。逆に言いますと、人々の上に君臨し、権力を振るいたいために、偉くなって支配者となろうとする人が多いものです。世界を見ましても、他の国の人のことなど考えず、自分たちの利益だけを考えて、それを公然と主張する人が増えているような感じがします。

本当にすべての人々のためを考える誠実な人もいると信じたいものです。12弟子たちはどうなのでしょうか。ペトロは28節で、「このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました」と言いました。ヤコブとヨハネは1:20で主イエスから召命を受けたときには、29節のように、すべてを捨てて素直に主イエスに従いました。

しかしこの世の見えるものを捨てて来たのだからこそ、それに見合う見えない地位を得たいという野望が徐々に芽生えて来たのかも知れません。しかし主イエスは8:34で、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と言われました。「自分を捨てる」ことが、福音書の後半全体のテーマです。

主イエスは、弟子たちの偉くなりたいという思いは否定されません。しかしそうであるなら、皆に仕える者となりなさいと言われます。「偉い」とは、「大きい」という意味の言葉です。日本語でも偉い人は大物とも言われます。「仕える」とは元々、食事のときに給仕することで僕の仕事です。

「仕える」は英語でServeで、私たちが神にServeして仕えるのがService 礼拝です。礼拝は神に仕えるものであって、自分が感動をして満足をするためのものではありません。仕えるためには、自分を低くして小さくすると小回りが利いて便利です。自分を偉く(大きく)すると、仕えるのではなく、あちこちにつっかえることになってしまいます。

43、44節は平行法というもので、同じ内容を似ている文章で言い換えて繰り返し強調します。「頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と言われます。「頭」という言葉(ギ/プロトス)は、「第一の」という意味もあり、31節の「先にいる者」と同じ言葉です。

「先にいる者が後になる」とは、「頭になる者は僕になる」ということです。人の子である主イエスは、仕えられるためではなく仕えるために来たと言われます。このようなことは言葉で言うだけでは説得力がありません。言うは易しです。主イエスはご自分で言われることを身を持って示されます。

主イエスはヨハネ13:5で、12弟子の足を洗われました。足を洗うのは本来は奴隷の仕事です。僕や奴隷は自分がしたいことをするのではありません。主人の意向に沿って忠実に従うものです。そのような生き方は、自由も無くつまらないものなのでしょうか。これは誰の僕になるかによります。

ただ偉くなりたい、頭になりたいとだけ思ってる人の僕では幸せではないでしょう。しかし私たちを心から愛し、私たちの幸せを願い、すべてを献げてくださる方の僕になるなら幸せになれます。クリスチャンは神の僕ですが、とても自由です。

自由とは何でもかんでも自分の好き勝手にすることではありません。不思議なことに、人間は自分の好き勝手にすると自由になるのではなくて、反って悪い思いに捕らえられてしまい不自由になります。ルカ15章にあります放蕩息子が良い例です。

人間は神を信じて、神の御心に従うときに、本当の自由を得て幸せを得られるように造られています。しかし、初めの人であるアダムとエバが罪を犯したために、私たち人間は生まれながらにして罪を持っています。その罪の赦しのために、主イエスは多くの人の身代金としてご自分の命を献げるためにこの世に来られました。

ヤコブとヨハネは後に、十字架でご自分の命を献げられる主イエスの姿を見て、ペンテコステに降られる聖霊を受けて、受難の杯を飲む者と変えられます。苦難を受けて苦しむことが美徳なのではありません。30節にありますように受難はありますが大きな祝福もあります。

神は一人一人をご覧になられて、それぞれに適した最善をなしてくださいます。御言葉に従うことが一番の幸いです。聖霊の導きに従って皆に仕える僕として歩ませていただきましょう。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは皆に仕える僕となりなさいと命じられます。それが私たち自身にとっても幸いな最善の生き方であると言われます。そしてご自身がその御言葉のとおりに十字架に付かれました。私たちも主イエスを信じて、与えられる聖霊の力によって皆に仕える僕として生きる者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。