「祈りの家」 

2025年11月16日礼拝式説教 
マルコによる福音書11章12~19節

主の御名を賛美します。
     
1、いちじく
11章から受難週の出来事に入りまして、前回の1~11節は受難週の初日である日曜日の内容です。今日の個所はその翌日である月曜日の内容です。11節でべタニアへ出て行って泊まった一行が、翌日にべタニアを出るとき、主イエスは空腹を覚えられました。

そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見られました。べタニアとエルサレムの間にあるベトファゲの村が、「いちじくの家」という意味ですので、その辺りでの出来事と思われます。いちじくは日本でも普通に見られますが、元はアラビア半島が原産と言われます。

聖書には、いちじくが初めから多く出て来ます。創世記3:7のエデンの園で、罪を犯したアダムとエバが自分たちが裸であることを知って腰に巻くものを作ったものは、いちじくの葉です。民数記13:23でヨシュアやカレブたちの12人がカナンの地に偵察に行って、持って帰って来た物は、ぶどうとざくろといちじくです。

ユダヤ人にとってのいちじくは、日本にとって米のようなものの一つのようです。現在のイスラエルでもいちじくは特産品の一つです。私もイスラエルに行ったときに、お土産に買いました。聖書では、平和で繁栄しているときは、人はぶどうといちじくの木の下に座っていると書かれています(ミカ4:4、ゼカリヤ3:10)。また逆に神の怒りのときには、ぶどうといちじくの木を打つと預言されています(詩篇105:33)。

2、いちじくの実
主イエスが実がなってはいないかといちじくの木に近寄られましたが、葉のほかは何もありません。実はありません。その理由は、いちじくの季節ではなかったからです。それでは、実が無いのは仕方がないなと思います。

しかし主イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われます。なぜそのようなことを言われるのでしょうか。主イエスが遠くからいちじくの木を見られると、そこに葉はありました。イスラエルでは、いちじくの実は普通、1年に2回取れます。

6月に成熟する「初なりのいちじく」と、8、9月に成熟する「秋いちじく」です。しかし普通は受難週の4月前後には、葉が茂ると小さい緑色の実もあり食べれるようです。日本でも夏から秋に実る果樹は春に小さな実を付けます。葉だけで実が無いということは実を結ばない木ということです。

主イエスは食べ物が無いということで怒られるお方ではありません。主イエスはヨハネ4:34で、「私の食物とは、私をお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われます。主イエスは、このいちじくの木は実を結ばない木であることを見抜かれました。そしてマタイ7:19にありますように、「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」ことになります。そして、このいちじくの木が何を意味するのかが分かり易いように、マルコによる福音書では、20節に続く、いちじくの木の記事の間に宮清めの記事が入ります。

3、異邦人の庭
それから、一行はエルサレムに来て、主イエスは神殿の境内に入られました。これは、「異邦人の庭」(地図10、D4)です。そこには2種類の商売をする人々がいました。一つ目は両替人です。20歳以上の男は神殿の献納金半シェケルをユダヤのお金で納めなければなりません(出エ30:13)。

半シェケルは労働者の賃金二日分弱の金額ですので今でいうと2万円弱位でしょうか。ローマ帝国の色々な所から来る巡礼者は、お金をユダヤのお金に両替をしなければなりません。両替も良心的に行われれば便利なものです。しかし手数料は1/5位取られて、一部は神殿に納められますが多くは両替人の莫大な利益になっていました。

もう一つは、供え物用として鳩を売る者です。ヨハネ2:14は、鳩の他に牛や羊を売る者がいたと言います。動物の鳴き声や臭いも漂っていたと思われます。日本でも神社や寺の祭り等では、境内に露店が並んで、食べ物の臭いや人がごった返して賑やかですが、そのような感じでしょうか。

供え物の動物も良心的な値段で売られていれば、神殿で買えて便利です。動物は神殿の外でも売ってはいます。しかし供え物の動物は傷が無いものという規定があります。神殿の外で買う動物は傷の検査で必ず不合格になります。これには裏があります。

神殿の中で買うと傷の検査済のものですが、値段は神殿の外の店の15倍位するそうです。この動物屋はアンナスの売店と呼ばれて、アンナスという大祭司の家族が経営する店です。異邦人はこの庭までしか入れませんので、商売が行われていて、物が運ばれている所で礼拝をしなければなりません。

4、祈りの家
そのような状況を主イエスがそのままにして置かれる訳がありません。そこで売り買いしていた人々を追い出し始められました。また両替人の台や、鳩を売る者の腰掛を覆されました。また境内を通って物を運ぶこともお許しになりませんでした。それはそうでしょう。

私たちも礼拝中に商売人が入って来て商売を始めたり、物を運んだりしたら、出て行ってくださいと言うと思います。そして今日の中心聖句である御言を教えて言われました。

「『私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』(イザヤ56:7) ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった(エレミヤ7:11)。」 異邦人の巡礼者の中にも、祈るためにわざわざ遠くからエルサレムまで来ている人もいることでしょう。しかしそこは、もはや祈る場所ではなくて、悪徳な商売でごった返す強盗の巣になっていました。
この御言は現代を生きる私たちにはどのような意味があるでしょうか。「私の家」である主イエスの家とは、この聖書箇所で直接的には神殿です。一つ目のこととしまして、現代には神殿はありませんが、神を礼拝する場所という意味で、祈りの家は教会です。

この御言は教会が商売をしてはいけないと言っているのではありません。教会を訪れる人々に良心的な価格で食事を提供して持て成すことは良いことと思います。また観光地のような教会では、信仰のために記念になるようなお土産等を売っても良いと思います。

但し、あくまでも教会の本質は祈りの家です。祈りの妨げになるような、礼拝堂の中での商売などは避ける必要があります。また教会は祈りの家ですから日曜日に礼拝に来る方を相応しくお迎えします。私自身も日曜日の朝にばたばたとしているときもありますが気を付ける必要があります。

教会で子どもが子どもらしく元気にしているのは良いことです。しかし神を礼拝するために来られる方々を、大人が露店のような状態で迎えるのは相応しくありません。

さて実のならない葉だけのいちじくの木とはどのようなものでしょうか。それは祭司長たちや律法学者たちでしょうか。祭司長たちの葉は立派です。神殿の献納金のために両替を行い、供え物のために動物を販売しています。そして儀式を行っています。そこには大きな葉がついています。

しかし、祭司長たちの木には何も実がなく、何も実を結んでいません。これは突然に裁かれるのではありません。神は旧約時代からずっと預言者をユダヤ人に送って、悔い改めて心から神を礼拝するように語り掛け続けましたが全く見向きもしません。そこで裁きが行われます。

ところで、ユダヤ教の会堂(シナゴグ)も教会(エクレシア)も、人の集まりという意味です。その意味では二つ目のこととしまして、祈りの家は信仰者の集まりです。信仰者の集まりは神の御心がなりますようにと祈るところです。何か悪巧みを計画したり、悪徳な金儲けを考える強盗の巣にしてはなりません。

また三つ目のこととしまして、私たち一人一人も、「聖霊が宿ってくださる神殿」(Ⅰコリント6:19)です。すべての人は主イエスの十字架の贖いによって買い取られ、神の目に貴く、重んじられる存在です。「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5:17)の御言のとおり、すべての人は神と絶えず交わり、祈りの家と呼ばれる存在です。

聖霊の神殿である人間が、悪巧みや悪徳な金儲けを考える強盗の巣になってはいけません。生活をする上でお金は必要ですから、お金のことを考える時間も必要です。しかし強盗の巣にしてはいけません。

主イエスは神殿での相応しくないかたちでの両替や鳩の販売を止めさせました。このときの礼拝者たちの中には心からの礼拝を捧げようとする人たちも多くいたと思います。しかしそのような真面目な人たちから貪る人たちもいました。主イエスはそれらの悪を取り除かれます。こうして救い主、メシヤについてのゼカリヤ14:21の預言の、「その日には、万軍の主の神殿に、もはや商人はいなくなる」の御言が成就しました。

5、祭司長、律法学者、群衆
神殿から悪が取り除かれて、清められました。その様子を祭司長たちや律法学者たちと群衆が見ていました。群衆は神殿の両替人や鳩を売る者が胡散臭い人たちだと知っています。主イエスがそれらの者を一掃され、預言による真理を語られて、その教えに心を打たれました。

しかし同じものを見聞きして、それがすべて旧約聖書の預言の成就であることを知っているはずの祭司長と律法学者たちは、主イエスをどのようにして殺そうかと諮ります。自分たちの利権を否定されて腹を立てたのでしょう。

同じものを見てもその人の信仰の状態によって正反対の反応を引き起こします。旧約聖書を余り知らないであろう群衆は主イエスの行いと教えに心を打たれました。しかし旧約聖書を知っているはずの祭司長と律法学者たちは、主イエスを恐れて、どのようにして殺そうかと諮ります。

私たちは聖霊の神殿であるはずの自分の心で、祈るのではなく、自己中心的なことばかりを考えていると、強盗の巣になってしまいます。そして主イエスの御業や教えを見聞きして、心を打たれる人を見ると腹を立てます。これらの人々は来るべきときには、滅ぼされてしまいます。

しかし聖霊の神殿である自分の身体を祈りの家としている人は、主イエスの御業を見ると、「ホサナ」(9、10節)と喜びの声を上げます。私たち一人一人が聖霊の導きに従って、祈りの家とならせていただきましょう。初めに自分自身が祈りの家となり、次に人の交わりが祈りの家となり、教会が祈りの家となります。

夕方になると、主イエスは弟子たちと都の外に出て行かれました。主イエスはマタイ21:17によるとベタニアに、お泊りになられました。そこにはラザロとその姉妹マリアとマルタの家があります。その日になすべきことをされた主イエスは十字架迄のわずかの時をそこで過ごされたのでしょうか。主イエスはそこでも伝道をされたのでしょう。私たちも毎日与えられることをきちんと終えて、くつろぎの夜を過ごさせていただきましょう。

6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは、葉の茂ったいちじくの木のような、祭司長たちや律法学者たちには実が無いと痛烈に批判されます。私たちも自分で実を結ぶことはできません。聖霊の導きに従って、日々、神と交わり、祈り、祈りの家となって実を結ぶ者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン