「神の権威」 

2025年11月30日礼拝式説教 
マルコによる福音書11章27~33節
     
主の御名を賛美します。

1、何の権威で
主イエスは11節で受難週の日曜日にエルサレムに入城されて、12節から始まる翌日の月曜日に宮清めをされました。今日は20節から始まった火曜日の出来事です。火曜日の出来事は13章の終わりまで続きますが、その中でも今日の個所から12章の終わりまではエルサレムでの論争と教えの内容になります。

主イエスの一行はエルサレムに来て、主イエスが神殿の境内を歩いておられました。昨日に清められた神殿の境内の様子をご覧になられていたのでしょう。そこに祭司長、律法学者、長老たちがやって来ました。この人たちはサンヘドリンというユダヤ議会を構成するメンバーで、神殿を取り仕切る権威を持っています。

この人たちは自分たちが支配して商売をしている神殿の境内で、商売の邪魔をした主イエスに対して、18節で、どのようにして殺そうかと諮っています。金儲けの商売を邪魔する者は殺すということを、宗教権威者がするというのは恐ろしいことです。

更に恐ろしいことは、そのような恐ろしいことをしようとしてるにも関わらず、自分たちはあくまでも間違ったことをしている主イエスを処罰するのだと思っています。自分たちは正しいことをしていると思い込んでいることです。このような的外れなことをする人はいつの時代にもいるものです。

そこで主イエスに、「何の権威でこのようなことをするのか。誰が、そうする権威を与えたのか」と問います。祭司長たちが聞いた、「このようなことや、そうする権威」とは何を指しているのでしょうか。それは二つのことで、15、16節で宮清めをしたことと、17節で人々に教えることについてです。

これらのことは何の権威でするのか、誰がそうする権威を与えたのかということです。祭司長たちは主イエスを殺すつもりですので、勿論これは純粋な質問ではなく、主イエスを陥れるための罠です。主イエスが何と答えたとしても必ず訴えることができるという自信を持った質問です。

もし主イエスがこの質問に対して30~32節のように、「天からの権威」と答えられたらどうでしょうか。それは神を冒涜する発言だとして訴えることが出来ます。もし、「人からの権威」と答えられたらどうでしょうか。主イエスは律法の学校で学びをしておられません。

当時、ユダヤ教の教師であるラビになるには恩師のラビから按手を受ける必要がありました。また宮清めのようなことをするにはユダヤ人の議会であるサンヘドリンの了解を得る必要があります。

祭司長たちは自分たちの伝統に従って決められた手続きを経て、それぞれの地位に就いています。祭司長たちは自分たちこそが、当然、ユダヤ教の正当な最高権威者であると自負しています。その自分たちの権威を無視し、盾突いて勝手なことをする、どこの馬の骨だか分からないやつは絶対に許せません。
ところで問題を正しく追究して行きますと、必ず問題の本質に至ります。祭司長たちの質問自体は本質を突くとても大切な内容です。しかしそうしますと本当に間違っている人の罪が明らかになって行きます。それで本来は間違っている人は何も言わない方が得です。

しかし、自分たちが間違っていると思っている主イエスが、自分たちの利害を損ねているので必死です。しかし他の人を攻めようとする言葉が、ブーメランのように自分に返って来るとどのようになるのかということには思いが至りません。

間違ったことをしている人は本人は至って真面目に話しているだと思いますが、他の人にはとてもおかしくコントのように見えてしまうことがあります。色々な市長がニュースで話題になっていますが祭司長たちの姿と重なる部分があります。反面教師として受け止める必要があります。

この質問の中には今日のキーワードである権威という言葉を2回使って強調しています。主イエスも権威という言葉を2回使って返されて(29、33節)、今日の箇所全体では権威が4回使われています。繰り返し使う言葉は、その人がそのことに拘りを持っていることを表します。祭司長たちが拘っているのは権威です。

薄っぺらい権威主義者ほど自分の脆い権威を傷付けられることをとても嫌います。権威が薄っぺらで簡単に傷付いてしまうからです。本当の権威を持つ者は人の言葉や行動では傷付きませんので、攻撃を受けても平然としています。

ところで権威の源とは何でしょうか。組織などで分かり易いのは、一般的にはその組織を作って支配している人が権威者、権力者と言えます。会社等で考えますと会社を作って、その株を持って支配している人です。そう考えますと、この世の権威の源は何であるのかが分かります。

この世の全ては神が造られたと創世記1章に書かれています。そしてご支配されています。これは全ての権威は神にあるということです。それで主イエスは病人を癒し悪霊を追い出すことができます。

しかし創世記1:28で神は人に、「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ」と言われました。これは全ての権威は神にありますが、神はこの世の管理を人に委ねられたということです。この世の全ての権威は神から委ねられたものに過ぎず、人間が権威の源ではありません。

2、主イエスの質問
主イエスは質問に対して、質問で返すのことを何度かされています(10:3等)。これはユダヤ教の教師であるラビたちの論法です。ここでも質問で返されました。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたがたに言おう。ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったのか。答えなさい。」

主イエスは祭司長たちが主イエスを陥れようとして言ったのと、まったく同じ、「天からのものだったか、人からのものだったか」という内容で同じように返されました。すると、祭司長たちは、これは不味いと思って互いに論じ合いました。

「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう」。さらにヨハネが天からのものだと言うともっと決定的に不味いことがあります。それはヨハネ1:36で、ヨハネは主イエスを見て、「見よ、神の小羊だ」と言っています。

ヨハネは主イエスをはっきりと救い主、メシヤと言っています。ヨハネを天からのものだったと言えば、天からの預言者ヨハネが証言した、主イエスが救い主であることをなぜ信じないのかということになります。それは絶対に言われたくないことです。

「しかし、『人からのものだ』と言えば・・・。」 彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからであると言います。この発言も恐ろしいものです。祭司長たちはこの世の全ての権威は神にあることを知っていながら無視して、自分たちが神の権威の座に座っています。

自分たちの権威によって全てを支配しようとしています。そして神の子である主イエスを何とかして陥れようとしています。これは罪を犯している人の特徴です。罪を犯している人は目に見えない神は恐れませんが、目に見える人は恐れます。

後の総督ピラトも同じです。ピラトは何も悪いことをしていない神の子イエスを十字架に付けることは恐れません。しかしユダヤ人の群衆は恐れます。私たちが真に恐るべきは人なのか、それとも神であるのかが問われます。

3、分からない
そこで祭司長たちは主イエスに、「分からない」と答えます。これは現代でも良く聞く言葉です。国会等で証人喚問をされると、「分からない」、「記憶にありません」という言葉を良く聞きます。本当に、「分からない」、「記憶にない」場合もあり得ることでしょう。

しかし、「分からない」という言葉は、このときの祭司長たちと同じで、自分に不利なことは言いたくないという場合が多いのではないでしょうか。しかしユダヤ教の最高権威者たちがヨハネが本物の預言者かどうか分からないと告白するのは情けないことです。

もし本当にヨハネが本物の預言者かどうか分からない場合には、それは仕方がないかもしれません。しかし自分の答えが正しいか正しくないかは別にして、本当は分かっているのに、「分からない」と言うのは嘘を付くことです。それは十戒の第9戒の「隣人について偽りの証言をしてはならない」を破る行為です。

人に対してではなく、神に対して嘘を付くという、正に神をも恐れないとんでもない態度です。嘘を付く者は神の権威を担うのに相応しい者ではありません。間違ったことをする者は罪を塗り重ねて行かざるを得なくなります。

すると主イエスは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい」と言われます。これは神によって天からのものであるヨハネの洗礼を、「分からない」と嘘を付く祭司長たちには何を言っても無駄であるからです。

また主イエスは十字架の前にまだ教えるべきことが多く残されています。今この時点では、ご自分は天の父なる神の権威によって行っていると言って捕らえられる訳にはいきません。

4、クリスチャンの権威
今日から主イエスのご降誕を祝うクリスマスを待ち望むアドベントです。今やクリスマスは全世界の多くの国々に知れ渡って来ています。この日本でもクリスマスは大きなイベントの一つになっています。若い人にとってはクリスマスの意味よりも、クリスマス・イブを誰と過ごすのかが大きな関心事のようですが。

しかしそこで私たちはクリスマスについて、30節の文書と同じことを問われます。それは、「クリスマスは天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」です。そのことを良く知るために、教会に通ったり、聖書を読んでいる方には、神の示しがあるようにと祈るばかりです。

クリスマスがもし人からのもの、人が作ったものであるなら全世界を2千年以上に渡って巻き込んでいる壮大なおとぎ話ということになります。しかし天からのものであるなら、なぜ主イエスを信じないのかということが問われます。主イエスを信じるとどうなるのでしょうか。

その一つとして、ヨハネ1:12は、「言(主イエス)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた」と言います。神の子としての権威が与えられるということです。主イエスは私たちに神の子の権威を与えるために、クリスマスのこの世にお生まれになられました。

それは先週の中心聖句である、「祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」という権威によって生きるものです。また私たちは祈りの最後に「主イエス・キリストの御名によってお祈りします」と言います。それは神の子、主イエス・キリストの権威によって祈ることができる特権階級です。そして祈る相手は全知全能の父なる神です。

私たちは神の子という権威を与えられる者ですが、決して、威張ったり。好き勝手なことをしたりするのではありません。神はその権威によって世界を造られ、ご支配されています。しかし支配するということは守って支えるということです。

神のご支配は上から押し付けるのではなくて、下から支えて仕えることです。それは10:45の通りです。主イエスは神の権威をご自分の利益のためには使われませんでした。私たちも主イエスがされたように、神の権威を自分の利益のために使うのではなくて、神に仕え、人に仕えるために使います。神の権威によって生きるという、大きな権威を与えられる者として、聖霊の導きに従って、人を恐れずに、ただ神だけを恐れ、正義を語って生きる者とさせていただきましょう。

5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。神に仕える最高権威者であるはずの祭司長たちは自分たちの権威に溺れて、道を踏み外してしまいました。このようなことは誰にでも起こりえることです。主イエスの貴い十字架の贖いによって与えられる神の子としての権威を感謝し、聖霊の導きに従って忠実に生きる者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン