「すべてを献げる」
2026年1月11日礼拝式
マルコによる福音書12章38~44節
主の御名を賛美します。
1、律法学者
主イエスはユダヤ人指導者たちとの議論を終えられて、受難前の最後の教えになります。今日は前回に引き続き、律法学者の問題です。ユダヤ教の宗派には大きくは、サドカイ派とファリサイ派があります。サドカイ派は祭司たちを含む上流階級の貴族や豪族たちです。彼らは政治的なことには関心はありますが、宗教的なことにはファリサイ派ほど熱心な関心はありません。
それに対して律法学者を含むファリサイ派は中産階級です。サドカイ派の下にいますので、偉くなろうとする上昇志向の強い人たちです。このような構図は現代でも同じかもしれません。サドカイ派のような育ちの良いボンボンと言われるような人たちは元々上にいますので上昇志向は余り強くありません。
しかし下にいて劣等感のようなものを持っている人ほど上昇志向が強く、何とか偉くなろうとします。しかし主イエスはなぜここで群衆と弟子たちに律法学者の問題点を話されるのでしょうか。現代の日本には律法学者はいません。この聖書箇所の意味はどのようなものでしょうか。
これは律法学者に限らずに全ての人が持っている大きな問題です。主イエスは28節からの議論で大切な戒めについてお話されました。それは神を愛し、隣人を愛することです。それに対して一番と言って良い程に大きな問題、罪は何でしょうか。それがこの段落の内容です。
2、偽善
主イエスは神殿の境内で教える中で、「律法学者に気をつけなさい」と言われます。「気をつける」と訳されている言葉は、「よく考えてみる」等の意味もあります。気をつけるために、律法学者の特徴を五つ上げられます。五つの内、初めの三つは彼らが望んでいることです。
一つ目は、正装して歩くことです。正装して歩くことは、きちんとした身だしなみで悪くない感じもします。しかし、「正装」は新改訳のように、「長い衣」のことで権威を表すもので、正装して歩くことで自分の権威を誇示します。
二つ目は、広場で挨拶されることです。広場と訳されている言葉は、市場等の人の集まる所で、挨拶は丁重な挨拶の意味です。多くの人に挨拶されることで自分の身分を誇示します。多くの人の集まる所では、普通の服装では目立ちませんので、人に挨拶をされるために目立つ正装をして歩きます。
三つ目は、会堂では上席、宴会では上座に座ることです。会堂は宗教の世界、宴会は社交の世界を表します。会堂の上席は、聖書が納められている箱の前の長椅子で、会衆に向かって座る席で、会衆から目立つことによって、自分の身分を誇示します。上席や上座に正装して座ることで目立って、人々から挨拶されるようにします。
四つ目のことは、やもめの家を食い物にします。前の三つの、正装して、人々から挨拶され、上席、上座に座る、宗教的な権威を笠に着て、やもめの家を食い物にします。やもめは立場が弱く金品等の要求を断り辛いことや、やもめの信仰心に付け込んで貪ると思われます。
五つ目のことは、見せかけの長い祈りをします。ここで長い祈りが悪い訳ではありません。主イエスもルカ6:12で、「夜を徹して神に祈られた」とあります。問題は祈りが長いことではなく、それが見せかけのために長いことです。祈りは神に真摯に向き合うものであり、人に見せたり、聞かせたりするためのものではありません。
律法学者の五つの特徴は偽善であることです。そしてその偽善に神や、人々の信仰を利用することは、神に対する裏切りです。主イエスは29~31節で第一の戒めは、すべてを尽くして神を愛すること、第二は隣人を愛することと教えられましたが、律法学者の姿はその正反対です。
3、12弟子
彼らは何とか偉くなりたいと思っていますが、中身が伴っていません。だからこそ外側だけでも偉く見える様にしたかったのでしょうか。しかしこれは彼らだけの問題でしょうか。そうではありません。これは12弟子の問題でもあります。
10:37でゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスに願ったことは、主イエスが栄光をお受けになるとき、その両隣りに自分たちが座ることでした。これは39節の会堂の上席、宴会の上座に座ることを望む律法学者と全く同じ姿でした。
弟子たちのしていることは彼らと全く変わりません。またこれは律法学者や12弟子だけの問題ではありません。これは現代を生きる私たちの問題でもあります。これは全ての人が抱える問題です。誰でも人から良く見られたいという思いがあります。そのような思いは全くないと心から言い切れる人はいないでしょう。
神は、偉くなろうとする思いを否定はされません。但しこの世の価値観とは全く異なります。この世の偉い人は偉ぶった態度を取りたがります。しかし、主イエスは神を愛し、隣人を愛しなさいと教えられます。またそれが一番楽な生き方でもあります。神を愛し、隣人を愛することが一番楽になって、一番幸せになります。
この世を一番楽に幸せに生きたいと思うなら、神を愛して、隣人を愛しましょう。間違いありません。神はそのように人を造られました。初めに言いました、大切ないましめの正反対の一番大きな罪とは何でしょうか。それは律法学者のように自分で自分を偉く見せかけようとすることです。
神は自分で自分を高くしようとする者を嫌われます。サタンという言葉の意味は反逆する者という意味です。神の意志に逆らって、反逆して自分で自分を高くする者です。誰でも自分で自分を高くする者は神によって低くされます。これほど惨めなことはありません。しかし自分を低くして謙る者は神によって高くされます。これが受難前の群衆に対する最後の教えです
律法学者は本来は人々に正しい生き方を教え、指導する立場にある人たちです。その人たちが偽善であることは人々にも悪い影響を与えることもあり、人一倍厳しい裁きを受けることになります。これらの内容は牧師にも大きく関わることですので、私自身も謙虚に受け止めたいと思います。
3、すべてを献げる
主イエスは献金箱の向かいに座り、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられます。ここでは、「入れる」という言葉を6回使って強調しています。何を意味しているのでしょうか。献金箱は婦人の庭の壁際に、13個のラッパ形のものがあります。大勢の金持ちがたくさん入れていました。
たくさんの献金を入れること自体は立派なことです。しかしなぜたくさんの献金を入れていることが分かったのでしょうか。三つのことが考えられます。一つ目は、主イエスは全能の神ですので、すべてをお見通しであることです。
二つ目は、当時のお金はすべて硬貨です。硬貨の金属の価値がお金の価値の保証だからです。そこで硬貨がラッパ形の部分を回って、落ちる音で金額が分かったようです。三つ目は、献金箱の横には献金の管理を行う祭司がいて、献金者は自分で献金額を祭司に申告して、祭司は献金額を大きな声で復唱していたと言われます。
いずれにしても、そこへ一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れました。レプトンは聖書の後ろの60頁の通貨の説明にありますが、「最小の銅貨で、1デナリオンの1/128」です。1デナリオンは1日の賃金ですので1万円とすると、1レプトンは80円位になります。レプトンはギリシャの通貨で、クァドランスはローマの通貨です。
すると主イエスは弟子たちを呼び寄せて、「よく言っておく。この貧しいやもめは、献金箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた」と言われます。これは勿論、金額的なことを言っているのではありません。金額的には金持ちがたくさん入れた方が、レプトン銅貨二枚よりも多いはずです。
しかし主イエスは、「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」とその理由を説明されます。やもめの献金に対する真実な姿勢は38~40節の律法学者の偽善と正反対であり、それを比べて強調するために律法学者の後にやもめのことを書いているようです。
また30節の御言葉を聴くときに、それは具体的にはどのようなことなのだろうかと考えさせられます。その答えがこのやもめの献金です。愛するということは、愛する者のために、自分の出来るすべてを献げることです。
しかしこの御言葉には正直なところ、戸惑いも覚えます。それは、生活費を全部入れてしまったら、自分の生活はこの先どうなってしまうのだろうかと思うからです。そこでも愛することが求められます。愛するということは、愛する者を信頼することです。
そのようなことは自分には出来ないと思うかも知れません。しかし余り意識していないかも知れませんが、自分のすべてを献げることをして来ている人は多くいます。結婚するということは、その先どうなるか分からない中で自分のすべてを献げることです。また多くの親は子どもに対して自分のすべてを献げて来ているものです。そしてそれが自分にとっても喜びです。
愛する相手が人間ですと、相手が言うことを間違えることもあり得ます。しかし全能の神は間違えることはありませんので、安心して信頼することが出来ます。先程、ここでは、「入れる」という言葉が6回使われていることをお話しました。
大勢の金持ちは何を入れたのでしょうか。たくさんのお金です。やもめは自分のすべてを入れました。なぜ、そのようなことが出来るのでしょうか。それが、やもめの喜びだからです。それは多くの人が自分が愛する人に喜んで献げるのと同じことです。
このときは特に受難週の火曜日で過越しの祭りの時です。エジプトで奴隷だったユダヤ人がエジプトを脱出して自由とされたことを神に感謝する時です。やもめは感謝してすべてを献げました。私たちも同じように過越しの祭りの小羊として十字架につけられた主イエスによって、エジプトが象徴する罪の奴隷から解放されます。そのことを感謝してすべてを献げます。
初めに、神が人を愛して聖霊によって救いへと導かれます。次に、その神の愛に応えて神を愛する人は喜んで神に献げます。その次のこととして、Ⅱコリント9:7は、「喜んで与える人を神は愛してくださる」と言います。神が人を愛し、人が神を愛するという愛の循環の中で、喜びに満ちた祝福の人生を歩ませていただきましょう。
4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。律法学者は人目を気にして、自分で自分を偉く見せようとしていましたが、心のどこかで虚しさを覚えていたのかも知れません。それとは反対に、貧しいやもめは誰にも見られることもない中で、喜んですべてを献げます。私たちも神を愛し、すべてを委ねて、喜びに満ちた歩みをさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。
