「目を覚ましていなさい」 

2026年2月15日礼拝式 
マルコによる福音書13章32~37節
     
主の御名を賛美します。

1、子も知らない
神殿の石が一つ残らず崩れ落ち、天地が滅びることは必ず起きます(31節)。そのようなことを言われますと心配になりますが、人の子である主イエスは天使たちを遣わして、選ばれた者を四方から呼び集めてくださいますので安心です(27節)。

今日の聖書箇所は4人の弟子たちが3、4節で、「そのことはいつ起こるのですか」と尋ねたことについてです。主イエスはご自身が再びこの世に来られる再臨の、「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子である主イエスも知らない。父なる神だけがご存じである」と言われます。

32節は色々と議論のある箇所で、註解書でも考え方が正反対のものがあります。天使たちは27節で主イエスと一緒に来ますが、その時は知らないというのは分かります。しかし子である主イエスも知らないのというのはどういうことでしょうか。

有名な註解書でも文字通りに主イエスも知らないのであると書いているものもあります。しかし神は三位一体でおられるのに、父なる神だけがご存じで、全知全能の神である主イエスは知らないということがあり得るのでしょうか。ここでは、「知る」という言葉の意味を良く考える必要があります。

主イエスはマタイ10:33(新共同訳)で、「人人の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」とあります。主イエスがその人を「知らない」と言われるのは、その人の存在は認識していますが、人格的な関りや関心を持たないという意味です。

日本でも縁を切るときの台詞として、「あなたのことは今後はもう知りません」と言います。これは、「あなたのことは今後はもう知りません」と言った瞬間に、相手の顔、名前等の記憶が無くなる訳ではありません。もう関りを持たず、関心も持たないという意味です。

主イエスがここで「子も知らない」と言われるのはその意味と思われます。主イエスは、ご自身が再びこの世に来られる再臨の日になぜ関心を持たれないのでしょうか。私たちは身近な人や親しい人から、あなたにだけはこのことを伝えるけれど他に人には伝えないでくださいと言われることがあります。

そのようなときに、他の人からそのことについて尋ねられるときには、「知らない」ということが多いのではないでしょうか。「私は知っているけれど、あなたには教えません」等と正直に言うと不必要に人間関係がぎくしゃくしてしまうかも知れません。私はそのことには関わらないという意味で、「知らない」と言います。主イエスも、その時について関りを持たれず知らない方が、弟子たちにとってまた聖書を読む人にとっても良いと考えられたのだと思われます。

ロンドンの思い出話を一つしたいと思います。30年以上前のことですが良く覚えています。私は教会に通い始めて洗礼は受けていませんでしたが、信仰は持ち始めていました。通っていた英語学校にイアン先生という50代位の自由奔放な人がいました。その先生は自分には計画があると言いました。

自分は聖書の教えに縛られずに自由に生きるけれど、いよいよ人生が終わりに近づいたと感じた時には、悔い改めて信仰告白をして天国に入れてもらうと言っていました。イアン先生はクリスチャンになるよりも自由奔放に生きた方が幸せであると思っていたようです。

神を一応は信じてはいたようですので、クリスチャンになった方が幸せになれることにどこかで気付いていて欲しいと祈るばかりです。もしその時がいつであるか知られていたら、多くの人がイアン先生と同じように考えてしまうかも知れません。そのようなことは御心ではないでしょう。

その時は主イエスも知らないのですから、4人の弟子であるあなたがたも知りません。そこで、「気をつけて、目を覚ましていなさい」と言われます。時々、この世がいつ滅びるといった予言である、ノストラダムスの大予言のようなものが話題になることがあります。

しかし主イエスも知らないと言われるのですから、そのような予言は完全な偽予言であることが分かります。そのような偽予言に惑わされないためにも、主イエスはご自分も知らないと言われたのかも知れません。

2、目を覚ましていなさい
主イエスは28節に続いて、1節だけの短いたとえを語られます。「それはちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに責任を与えてそれぞれに仕事を託し、門番には目を覚ましているようにと、言いつけるようなものである」と言われます。

たとえには色々な種類がありますが、このたとえは寓喩と言われるもので、一つ一つの言葉に対応する意味があります。「家を後に旅に出る人」は主イエスで、「旅に出る」は十字架の死から復活された後に、昇天され天に行かれていることを表します。

「僕たち」は弟子たちで、「責任を与えてそれぞれに仕事を託し」は証しをし(9節)、福音をすべての民族に宣べ伝えること(10節)等です。門番には目を覚ましているようにと言いつけます。家の主人である主イエスが帰って来られる再臨が、夕方か、夜中か、鶏の鳴く頃か、明け方か、私たちには分からないからです。

夕方、夜中、鶏の鳴く頃、明け方の表現は、ローマの夜警がこの4つの区分で交代をしていたことから来ているようです。普通に考えますと夕方は目を覚まして起きていますが、夜中、鶏の鳴く頃、明け方は眠っていると思われます。

それで主人が突然帰って来るのが、夜中、鶏の鳴く頃、明け方ですと、私たちが眠っているのを見つけるかもしれません。このことは他のたとえでも強調されています。並行記事のマタイによる福音書では、この記事の少し後に「十人のおとめ」のたとえが語られます。

そこでは、賢い5人のおとめたちは灯の油を用意していたので、真夜中に来た花婿と祝宴の間に入りますが、愚かな5人のおとめたちは灯の油を用意していなかったために、祝宴の間に入れません。

終わりに主イエスは、「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ」と言われます。3節からのことは主イエスが4人の弟子たちだけに話されています。しかしその内容は、「すべての人に言うのだ」と言われることは、4人がすべての人に伝える必要があることです。

そして最後に、「目を覚ましていなさい」と言われますので、「目を覚ましている」必要のあるのは門番だけではなく、すべての人です。。主イエスは今日の聖書箇所で、「目を覚ましていなさい」と4回言われ強調されます。「目を覚ましていなさい」というのは、たとえのように、私たちは真夜中も目を覚まして起き続けていなければならないのでしょうか。

しかし人間はずっと目を覚まして起き続けていることはできません。徹夜をできるのは、せいぜい二日か三日です。例え夜中には目を覚ましていても、どこかで眠ることになります。たとえを含めて、「目を覚ましていなさい」とはどのような意味なのでしょうか。

主イエスは33節で、「気をつけて、目を覚ましていなさい」と言われます。それは肉体的に目を覚ましているというよりも、霊的に目を覚まして気をつけていることです。いくら肉体的には目を覚まして起きていても、霊的に眠っているならば意味がありません。

それは他の言い方では、「彼らは見るには見るが、認めず 聞くには聞くが、悟らず」(4:12)ではなく、見たら認めて、聞いたら悟ることです。霊的に目を覚まして気をつけているべき具体的な内容は、13章で「気をつけなさい、気をつけていなさい」と4回言われています(5、9、23、33節)。

一つ目は主イエスの名を名乗り惑わす者(5節)、二つ目は自分のこと(9節)、三つ目はしるしや不思議な業を行い惑わそうとする偽メシアや偽預言者(23節)、四つ目は再臨のこと(33節)です。このようなことに惑わされ騙されてしまう人は沢山います。

ただ、「気をつけて、目を覚ましていなさい」と言われても、中々それを実際に行い続けることは難しいものです。そこで主イエスは私たちが、「気をつけて、目を覚ましている」ために二つのことを命じられています。一つ目は、すべてを尽くして神である主を愛することです(12:30)。

毎日の生活で、主を愛し、主イエスに繋がっているなら、聖霊によって目を覚まし続けていられます。そして必要なことは聖霊が示してくださいます。例え真夜中にはぐっすりと眠っていても、本当に必要な時には目覚めが与えられることでしょう。しかしここで、「気をつけて、目を覚ましていなさい」と直接に言われた内の3人が、ゲツセマネではぐっすりと眠ってしまいます(14:37~41)。

主イエスは私たち人間の弱さを良くご存じですので、私たちが「気をつけて、目を覚ましている」ために、言葉だけではなく五感で覚えるように、二つ目のこととして聖餐を制定してくださいました。聖餐は主イエスが私たちの贖いのために十字架につき永遠のいのちを与えてくださること、また主の再び来られる日を待ち望むことを覚える時です。

先程、「気をつけて、目を覚ましている」ことの4つをお話しましたが、一番大切なのは最後の主イエスが再びこの世に来られる再臨です。主イエスの再臨は知っていた方が良いことですが、再臨をただ知識として知っているだけでは不十分です。

主イエスが再臨される時に眠っていては意味がありません。眠っているというのは、主イエスが再臨されることを一応知ってはいたのですが何も用意をしていないことです。「十人のおとめ」のたとえで言いますと、愚かな五人のおとめのように灯の油を用意していないことです。

「気をつけて、目を覚ましている」というのは、賢い五人のおとめのように、壺に油を入れて持って用意していることです。油は聖霊を象徴しているとも言われます。目を覚まして主イエスに繋がっていることが祝福であり、幸せな生き方です。目を覚ましつつ、神にある平安の中で夜はゆっくりと休ませていただきましょう。

3、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは、「気をつけて、目を覚ましていなさい」と言われ、そのためには、すべてを尽くして主を愛しなさいと言われます。聖霊の導きに従って主イエスの繋がり、主を愛し、聖餐によって主の再臨を覚える者とさせてください。そして神にある平安の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。