「できるかぎりのことを」
2026年2月22日 礼拝式説教
マルコによる福音書14章1~9節
主の御名を賛美します。
1、祭司長たちや律法学者たち
11章から受難週に入りまして、前回の13章で長い火曜日が終わりました。この日は過越祭と除酵祭の二日前です。過越祭は出エジプトの過越の食事を記念する祭りで、家の中からパン種を取り除きます。
今日の個所は受難週の水曜日の内容です。14、15章は受難の内容になります。今年の暦では先週の水曜日の18日が灰の水曜日と呼ばれ、そこからレント(受難節)に入りました。
今日は4つのグループの人が登場します。説教原稿の番号に付いていますが、一つ目は祭司長たちや律法学者たちです。彼らは自分たちの言い伝えに従わない主イエスを何とか言い負かそうとして来ましたが、真実を語られる主イエスに勝てません。直前の13:37に、「目を覚ましていなさい」とありました。
祭司長たちや律法学者たちのように主イエスに聞き従わず、自己中心的に考える者は霊的に眠っている人で真実を語られる主イエスに敵対します。そして、正攻法では勝てませんので、だまして捕らえ、殺すことを諮っています。
このようなことをしてしまう人はいつの時代にもいます。何もしないのなら何も悪影響はありません。しかし自分たちは正しいと思い込んで、御心と正反対のことをするのは的外れで大きな問題を引き起こします。
三日前の日曜日に主イエスがエルサレムに入城されたときには、民衆の多くは「ホサナ」と叫んで支持しています。そこで彼らは、民衆が騒ぎ出すといけないので、祭りの間は捕らえ、殺すことはやめておこうと話していました。しかし実際には早く進んで行くことになります。
2、一人の女
主イエスはベタニヤで、規定の病を患っているシモンの家にいて、食事の席に着いておられます。ベタニヤはエルサレムの南東3キロにある村です。規定の病を患っている人は隔離されますので、シモンは既に癒されていたと思われます。
シモンの家とありますが、ヨハネ12:1ではラザロの家のように思われます。そこでシモンはラザロの姉妹マルタの夫か、父ではないか等ともいわれますが正確には分かりません。
二つ目のグループの、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来ます。この女はヨハネ12:3にはマリアと書かれていますが、マルコとマタイは敢えて名前を書きません。その理由は二つ考えられ、一つ目は、マルコとマタイはこのことを二千年前のマリアだけの行いとするのではなく、すべての人が自分のこととして受け止めることを願っているからです。
二つ目は、注目すべきはマリアという人ではないからです。主イエスは9節で、「この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」言われます。記念として語り伝えられるのは、あくまでもこの人のしたことであって、このことをした人ではありません。ナルドの香油はヒマラヤ原産のナルドという植物から取る香油で、現在もヒマラヤで栽培されているそうです。女はその壺を壊し、香油を主イエスの頭に注ぎかけました。
3、ある人々
家は香油の香りでいっぱいになりました。家の中の空気は香油の香りのように良い雰囲気でしょうか。三つ目のグループの、ある人々が憤慨して互いに言いました。憤慨したのはマタイは弟子たち、ヨハネはイスカリオテのユダと言います。マルコがここで、「ある人々」というのは、あなたはこれらの三つのグループのどの人になりたいですかと問いかけているようです。
ある人々は、「何のために香油をこんなに無駄にするのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と言います。1デナリオンは1日の賃金ですので、1万円とすれば、この香油は3百万円以上ということです。それはほぼ年収ということです。3百万円以上と聞きますと貧乏性の私も思わず、同じように思ってしまいそうです。
そして、ある人々は彼女を厳しくとがめました。このことはとても考えさせられます。私たちは他の人が何かをするときに、自分の価値観で評価をしてしまいがちです。そして、「あの人は良いことをした」とか、「あの人はなぜあのようなことをしたのだろう」と思ったりします。
人はそれぞれ考えが違うものです。それで中々、相手の気持ちになって考えて、その人がどのような思いでそのことをしたのかと想像をするのに乏しいものです。考えは違っても、相手は少なくとも良かれと思って何かをしているはずですので、例え自分がどのように感じたとしても、初めに労いと感謝の言葉を掛ける者でありたいものです。
無駄とはどのようなことでしょうか。価値のあるものを、価値の無いことや役に立たないことに使うことです。無駄かどうかはその人の価値観によって判断は変わります。使うことの意味や価値を知っているかどうかにも関わって来ます。
価値を知っていて好きな人にとっては、自分のコレクション、例えばカメラ、絵、古いアンティーク等に大金を使うこともあります。しかし興味の無い人に取ってはそれらが例え千円でも無駄だと思うでしょう。無駄かどうかは、使う目的の意味、価値を知っているかどうかに関わります。
1980年代に志村けんさんが、「カラスの勝手でしょ」という替え歌を歌っていました。ナルドの香油はマリアの物ですので、どのように使っても、「マリアの勝手でしょ」という気もします。
4、主イエス
四つ目のグループの主イエスは女をかばって、「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ」と説明されます。香油を注ぐことは、客をもてなす良い行いです。ここで主イエスの三つのことを言われます。
一つ目は、「良いことをしてくれた人をなぜ困らせるのか」ということです。それは、善意から良いことをしてくれた人を困らせてはいけないということです。
二つ目は、「貧しい人々に施すことができたのに」と言いますが、貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、本当にする気があるのなら、いつでもしたいときに良いことをしてやれると言われます。それは言い訳ではないのかと言われているように聞こえます。
三つ目は、「しかし、私はいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言われます。主イエスはこれまでに少なくとも3回はご自分の死を弟子たちに預言されています。
しかし弟子たちは、その預言の意味が分かりませんので何もしません。約3年間を師と弟子として寝食を共に過ごして来ました。その師が二日後にこの世を去る状況です。ところで、主イエスはご自分の十字架の死と復活の日をご存じですので、13:32の再臨の日時も、もし知ることを望まれるのであれば知ることはできたと思われます。
5、できるかぎりのことを
この女はなぜ主イエスに最善の時に香油を注ぐという、主イエスに良いことができたのでしょうか。「気をつけて、目を覚まして」(13:33)いたからだと思われます。この女、マリアはルカ10:39では、主イエスの足元に座って話を聞いていました。
マリアは姉のマルタがもてなしのために忙しくしていても、主イエスの話だけに集中していました。すべてを尽くして主を愛していました。主を愛する者には聖霊が働かれて、その時に本当にする必要のあることを示してくださいます。
主イエスが言われるように、女は主イエスが間もなく亡くなられことを知っていたのでしょうか。それで、前もって主イエスの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしたのでしょうか。主イエスは女がそのことを知っていたとは言われていません。女ができるかぎりのことをしたことが、結果的には埋葬の準備になったのだと思われます。
主を愛する者は思慮深くなります。先週も少しお話をしました、マタイ25章の十人のおとめのたとえの中の賢いおとめたちは灯の油を用意していました。今日の女もナルドの香油を用意していました。この女はいざという時に使うために高価な香油を用意しておく賢さがあります。
高価な香油ですから、ある人々が言うように無駄にすることはできません。主を愛し、目を覚ましている女は、用意をしておいた香油を使う時は今であると示されたのでしょう。そしていざという時には、大胆にできるかぎりのことをしたと思われます。
できるかぎりのことは何も高価である必要はありません。主イエスはレプトン銅貨二枚を献金したやもめを、できるかぎりのことをしたことから、誰よりもたくさん入れたと主イエスは喜んでくださいます。またできるかぎりのことをする時には、そのことをする本人にとっても大きな喜びです。
私たちも自分の愛する人がこの世を去る時が近付いていることを知ったらどうするでしょうか。できるかぎりのことをするのではないでしょうか。私もこのことについては色々と学ばせられました。
私の父は12年前に80歳で亡くなりました。男の平均寿命が81歳であることは知っていました。しかし私は自分の父が亡くなるということを全く想像もしていませんでした。父がとても健康であったというのではなく、父が亡くなるということが有り得るということが私の頭の中には全くありませんでした。突然に胃癌のステージ4と聞かされたこともありますが、心の準備が何もできていませんでした。
父との関係割とドライで、後になって大きなショックを受けることになるとは思ってもいませんでした。父の死後は、育ててもらった感謝をきちんと伝えることもできず、恩返しのようなことも大してできず、大きな悔いが残りました。「孝行したい時に親は無し」とは良く言ったものだと思います。
それから7年後の5年前に兄が肝臓癌のステージ4と聞きました。兄との関係もドライでしたが、同性の家族関係は難しいのでしょうか。兄は若かったこともあって、やはり心の準備ができていませんでした。しかし余命を聞いてからは、父の時と同じ過ちをしてはいけないと思いました。
そこからはできるかぎりのことをしました。できるかぎり面会に行き、世話になった感謝を伝え、天国に行くために洗礼も受けてもらいました。しかし約1か月間の取ってつけたような世話では全く足りない思いで一杯でした。どうして普段からもっとできるかぎりのことをしなかったのかという思いを長く引きずりました。
それからは母には、できるかぎりのことをしようという思いが与えられました。母が入院をしてからはコロナで直接の面会が難しくなりました。しかし直接の面会では横須賀への往復6時間掛かるものが、オンラインで毎週面会ができるようになり、とても助かりました。洗礼も授けられました。
好きだった母の葬儀では感情が乱れて司式はできないと思っていましたが、自分でも不思議な程に感情は全く乱れることがありませんでした。また父や兄のように気持ちを後に引きずることもありませんでした。できるかぎりのことを完全ではないもののある程度はできたからではないかと思います。
このことは仕事でも同じように感じます。できるかぎりのことをしたと思える時は、例え結果がどうであれ、すべてを主に委ねることができます。しかし逆にできるかぎりのことをできていない時は後悔が残ったり後に引きずり易いものです。
私たちはあれもこれもと、すべてのことに対して、できるかぎりのことをすることはできません。それはマリアが姉のマルタがもてなしをしているのを手伝うことはせずに、主イエスの話を選んで集中したようにです。聖霊の導きに従って、すべてを尽くして主を愛するなら、私たちが選ぶべきことは示されます。
そして示されることに集中して、聖霊の力によって、できるかぎりのことをする時に、それは主が用いてくださいます。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のしたことも記念として福音書で語り伝えられています。私たちも聖霊によって、御心に適うできるかぎりのことをさせていただきましょう。それは天国で語り伝えられることでしょう。
6、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。高価な香油を注いだ女に対して主イエスは、「この人はできりかぎりのことをした」と喜ばれました。それは女にとっても大きな喜びです。私たちも主から恵みによって与えられているものを、聖霊の導きに従って、できるかぎりのことをし、主にある喜びに生きる者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。
