「勝利を与えてくださる神」
2026年3月8日説教
コリントの信徒への手紙一 15章50~58節
主の御名を賛美します。今日は召天者記念礼拝式です。今年度、茂原キリスト教会の教会員では4名の兄弟姉妹が天に召されました。教会員以外にも親しい方が召された方もいらっしゃいます。主からの慰めがあることをお祈りします。また今年度以前に召された方の写真も置かれています。先に召された方々を偲びつつ、御言葉を聴かせていただきましょう。
1、秘義
使徒パウロがこの手紙を書いているコリントは、ギリシャの都市です。ギリシャの文化では死者の復活は有り得ないことであり、その影響はコリント教会員の中にもあります(12節)。その意味では、コリントは日本の現在の状況と似ている部分があるかも知れません。
日本では死後のこと等を話すと変わった宗教の人と思われることでしょう。しかし世界的に見ますと、キリスト教徒とイスラム教徒を合わせますと、世界の二人に一人は死者の復活と天国を信じています。更にヒンドゥー教徒を加えますと、三人に二人は死後の世界を信じています。
死後の世界が無いと信じる人は世界的には少数派です。しかしコリントの地域の人にとっては、死者の復活は無いという常識に反することを話しますので、パウロはとても丁寧に同じ内容を言い換えて繰り返し語ります。
パウロは35節で二つの質問を想定していました。死者はどのように復活するのかと、どのような体で来るのかです。これはクリスチャンも関心のあることです。今日の箇所はその質問についての続きの内容です。初めに、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできません。」
それを言い換えて、「朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐこともありません。」 ということは、肉と血は、朽ちるものである肉と血を持つ私たち人間の肉体です。そして神の国は朽ちないものです。それで、朽ちるものである人間の肉体は朽ちないものである神の国を受け継ぐことはありません。
現在のままでは神の国を受け継げません。しかしクリスチャンは神の国を受け継ぐ者です。現在は朽ちる体を持つクリスチャンは、どのようにして朽ちない神の国を受け継ぐのでしょうか。ここで、パウロは秘義を告げます。秘義は原語でミューステリオンで、ミステリーの元の言葉です。
秘義の一つ目は、私たち皆が眠りに就くわけではありません。眠りに就くは、この世の死の遠回しの言い方です。私たち皆がこの世の死である眠りに就くわけではないということは、主イエスが再びこの世に来られる時に、既に眠りに就いている人と、まだ眠りに就いていない人がいるということです。
秘義の二つ目は、私たちは皆、変えられます。パウロはここで、「私たち皆が眠りに就くわけではありません。私たちは皆、変えられます」と「私たち」という言い方をします。これは、眠りに就いた人に対して、まだ眠りに就いていないという意味での「私たち」です。
主イエスが再びこの世に来られるのがいつかは分からないとパウロも言いますので、自分がその時に生きているという意味ではありません。ただこの手紙を読んだ人たちはパウロが生きている間に主イエスが再び来られる再臨があると思ったようです。
またコリント教会員は主イエスを信じる新生によって、復活の体に既に与っていると思っていて、もうこれ以上の復活はないとも考えていました。しかし、「私たちは皆、変えられます」と言うことによって、まだ復活の体には与っていないということと、これから変えられる必要のあることを教えています。
2、どのように復活、どのような体
いよいよ35節の質問の、どのように復活するのか、またどのような体で来るのかの具体的な内容です。それは、「終わりのラッパの響きとともに、たちまち、一瞬のうちにです。」 ラッパは旧約聖書で、戦いの合図(民数記10:9)、自由と解放の合図(民数記10:10)、集合の合図(民数記10:3、4)等に使われました。
ラッパは26節の最後の敵である死が無力にされて、死から解放されて、皆が集められる合図です。そしてそれは一瞬のうちにです。時間を掛けてゆっくりとではありません。ラッパが鳴り響くと、死者は朽ちない者に復活し、私たち、その時に生きている者は朽ちない者に変えられます。
一瞬のうちにどのように変えられるのでしょうか。53、54節で2回繰り返して強調して、「この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着る」と言います。秘義の三つ目は、私たちが変えられる体は、朽ちることのない、死なないものを着るものです。
「着る」ということは色々と考えさせられます。復活の体になったら何か皆が霊の体になって、誰が誰だか分からなくなるのではなくて、それぞれの個性、人格は残ります。神の国を受け継ぐには、朽ちないもの、死なないものを着るということですが一体何を着るのでしょうか。
マタイ22:1~14に婚礼の祝宴のたとえがあります。婚礼の祝宴である神の国では、礼服を着ていない人は放り出されてしまいます。神の国はドレスコードが厳しいようです。神の国に入るための礼服とはどのようなものでしょうか。
神の国に入るための礼服を、53、54節は、「朽ちないもの、死なないもの」と言います。この礼服についてローマ13:14は、「主イエス・キリストを着なさい」と言います。私たちが神の国に入るために着る、朽ちない、死なない礼服とは主イエス・キリストです。
主イエス・キリストを着ると言っても、演芸会等で行われる二人羽織りのような窮屈な姿ではなく、霊的に身に纏うイメージでしょうか。主イエス・キリストの礼服は、くださいと言えば誰でもただで貰える礼服ですが、この世にいる間にくださいと言っておかないと貰えないものです。
主イエス・キリストの礼服は、神の国に入るためには必ず必要なもので、すべて揃えて与えられます。私たちが死から復活させられる時、またはこの世の終わりに生きていて変えられる時には、すべて完全なセットの礼服が与えられます。四重の福音の栄化の礼服です。
しかし、この世においても、礼服を着る前の保証として、簡単な夏服のような礼服を着ることが出来ます。四重の福音の新生、聖化の礼服です。着ていると快適に過ごせる服ですので、早く着ることをお勧めします。一人一人にぴったりと合うオーダーメイドの最高級品です。
3、勝利を与えてくださる神
この世の終わりに主イエス・キリストの礼服を着ているとどうなるのでしょうか。旧約聖書の御言葉が実現します。「死は勝利に呑み込まれた」はイザヤ25:8、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前の棘はどこにあるのか」はホセア13:14から来ています。
パウロはこの世の死を決して軽く見てはいませんが、最終的に死に勝利はないと断言します。棘は力のある武器ですが、死の武器である棘はどこにあるのかと問います。死の棘は罪です。最初の人アダムとエバが神の命令に逆らって善悪の知識の木の実を食べる罪という棘によって人は死ぬものになりました。
そして私たち人間は罪を犯してしまうものです。その罪を思い返すと、この世の死によって完全に滅ぼされてしまうのではないかと考えて恐れるものです。そのように人間が恐れる罪の力はどこから来るのでしょうか。それは律法からです。
律法自体は神の戒めですから善いものです。しかしローマ7:8、9にありますように、律法によって人間の内にある貪りを起こして、機会を捉えて罪が生き返ってしまいました。人間は何かを禁じられると反って禁じられたことしたがるものです。アダムとエバも善悪の知識の木の実は食べてはいけないと言われて反って興味を持ってしまったようです。
しかし主イエス・キリストを着るとどうなるのでしょうか。主イエス・キリストは律法に従って、すべての人の罪を背負われて、十字架で死なれました。それにより主イエスは律法の要求をすべて成就されました。そしてその死からの復活によって既に死に勝利されました。
そしてその勝利はご自身お一人だけのものではなく、主イエスを信じるすべての人に与えてくださいます。それは死に対する勝利であり、死の棘である罪からの解放であり、罪の力である律法からの解放です。主イエスの十字架の死からの復活は、死、罪、律法のすべてからの解放をもたらす根本的な解決であり、圧倒的な勝利です。その勝利で私たちを覆ってくださいます。
死ぬべきものが死なないものを着ることと、死が勝利に呑み込まれることは、何となく真珠を作るイメージと重なります。真珠はアコヤ貝の中に異物を入れると異物を包み込むように作られます。死、罪、律法は主イエスの勝利に呑み込まれて変えられます。主イエス・キリストによって私たちにそのような勝利を与えてくださる神に、感謝しましょう。
4、主の業に励む
勝利を与えてくださる神に感謝する者は、この世ではどのような生き方をするのでしょうか。「しっかり立って」ですが、どこに立つのでしょうか。3:11に土台は主イエス・キリストと書かれています。主イエス・キリストの土台に立つなら動かされることはありません。
私たちは動かされる、この世の土台に立ってしまうと、ふらふらとして、32節のように、「死者が復活しないとしたら、食べたり飲んだりしよう、どうせ明日は死ぬのだから」と言って、悪いつきあいをしてしまったりします。しかし動かされることのない不動の岩である主イエス・キリストの土台に立つなら安心です。そして安心して、いつも主の業に励みます。
このことは逆にも考えられます。いつも主の業に励むことによって、しっかり立って、動かされることなくなります。それは自転車の運転に似ているかも知れません。一生懸命に漕いである程度のスピードを出しているとぶれることなく安定していますが、ゆっくり過ぎるとふらふらとしてしまうことに似ています。
最後にパウロは、「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄ではないことを知っているからです」と言います。無駄で労苦とは主の業ですが、それは具体的にはどのようなことでしょうか。これは14節のことを言っているようです。死者の復活を信じないコリントで、キリストの復活を宣べ伝える宣教は、日本での宣教と同じように大きな労苦があります。
またその信仰を持ち続けることも労苦があります。そしてもしキリストが復活しなかったのなら、それは無駄なことです。無駄どころか、クリスチャンは偽証をした者であり(15節)、すべての人の中で最も哀れな者となります(19節)。
しかしそうではないことを知っています。知っているというのは、知識としてだけで知っているだけではなく、体験を通して知っています。それで、例え今は宣教が順調に進まないことや、自分の信仰が理解してもらえないというような労苦があっても、主にあって無駄ではないことを知っています。
全知全能の神はすべてをご存じです。この世の誰も見ていない、知らないことでも神はすべてご存じです。主の業に励んだ労苦が無駄になることは決してありません。神が豊かに報いてくださいます。既に天に召された人にとって、この世の死は単なる通過点に過ぎず、勝利が待っています。
この勝利は自分の力で手に入れるものではありません。主イエスが十字架につかれて、神が与えてくださる勝利です。勝利を与えてくださる神に感謝して、勝利を期待し、聖霊の導きに従って主の業に励ませていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。この世に生きる私たちにとって恐れるものはやはり死です。愛する方が天に召されたご遺族に慰めをお与えください。しかし私たちの救い主イエス・キリストは既に死に勝利され、主イエスを信じる者には同じ死に対する勝利を与えてくださいますから有難うございます。
私たちがいつも聖霊の満たしの中で、あなたを見上げて、主イエスを土台としてしっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励むことが出来ますようにお導き、お守りください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
