「主イエスの契約の血」

2026年3月15日 礼拝式  
マルコによる福音書14章22~25節
  

主の御名を賛美します。

1、主の晩餐
今日の聖書個所は聖餐の制定となる御言葉です。この御言葉に基づいてキリスト教会では二千年間、聖餐を行っている大切なものであり、改めてその意味を聴かせていただきたいと思います。一同がしている食事は16節の過越の食事です。

過越の食事は、この時から約1400年前にユダヤ人が奴隷であったエジプトを脱出したことを記念する食事です。その中で行われる今日のことは主の晩餐、最後の晩餐と言われます。曜日的には17節の夕方の日没で水曜日が終わり、木曜日に主イエスと12弟子が一緒に食事の席についたものと考えられます。

主イエスはパンを取り、祝福してそれを裂き、弟子たちに与えて、「取りなさい。これは私の体である」と言われました。また、杯を取り、感謝を献げて彼らに与えられ、彼らは皆その杯から飲みました。そして主イエスは、「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である」と言われました。

教会に長く通われている方は、今日の御言葉を聞き慣れていて特に違和感はないかもしれません。しかし物心が付いてから教会に来られた方はこの御言葉を聞くと、どのように感じるでしょうか。私もそうでしたが、魚君のように、ぎょぎょぎょっと感じるかも知れません。

二千年前に、この御言葉を聞いた人たちはどのように感じたでしょうか。他の場面ですが、主イエスが、「私が与えるパンは、世を生かすために与える私の肉である」(ヨハネ6:51)と言われたことに対してユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に与えて食べさせることができるのか」((ヨハネ6:52)と言って互いに議論し合いました。

血を飲むことについてはレビ記17:12で、「あなたがたの誰も血を食べてはならない」と言われて禁じられていました。それで、「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『これはひどい話だ。誰が、こんなことを聞いていられようか。』」(ヨハネ6:60)。

そして、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(ヨハネ6:66)とあります。これらの人々の反応を皆さんはどのように感じられるでしょうか。もし二千年前に目の前で主イエスが、「私は生けるパンである」と言われる場面に自分もいたら、受け入れることができるでしょうか。
茂原キリスト教会でも毎月第一主日に聖餐が行われていて、今日の御言葉を私も読みます。その時に、皆さんはどのように感じておられるでしょうか。今日の聖書個所で主イエスはパンを私の体、杯を私の契約の血と言われます。

皆さんはこの御言葉をどのように受け止めておられるでしょうか。洗礼を受けておられる方は主イエスの体と言われるパンを食べて、血と言われるぶどう液を飲まれています。洗礼を受けておられない方もこの御言葉を聞きながら聖餐の様子を見ておられます。

そしていずれ洗礼を受けられたら、この聖餐に参加することになります。主イエスの体と血と言われるパンとぶどう酒はどのようなものなのでしょうか。

2、聖餐のパンとぶどう酒
第一に物質的には、この時は過越の食事ですのでパンはパン種を除いた物ですのでクラッカーのような物でしょう。ぶどう酒は発酵したアルコールを含むものです。私たちの教会ではパンはパン種入りで、ぶどう液はアルコール無しのジュースですので、この時とは違う物を使っています。

敢えて違う物を使っているのではなく、色々な都合上です。教会によってはパン種を除いたパンと、ぶどう酒やアルコールを飛ばしたぶどう酒を使う所もあります。プロテスタントの多くの教会がぶどう酒やアルコールを飛ばしたぶどう酒を使わない理由は、未成年者も一緒に参加出来るようにするためや、アルコール依存症の人に悪い影響を与えないため等です。

第二に、主イエスの体と血の意味についてですが、この聖書箇所の場面では、主イエスはまだ十字架につかれていませんので、体は裂かれてはいませんし、血も流されていません。その意味からしますと、この時のパンとぶどう酒は、物質的には主イエスの体ではなく、血でもないと思われます。

それではパンとぶどう酒は単なる象徴なのでしょうか。主イエスはパンを与える前に祝福されました。祝福するというのは恩恵、恵みを与えることです。パンに恩恵を与えるということは、パンに主イエスの体としての霊的な恩恵が与えられるということです。物質的にはただのパンですが、そこには霊的な祝福があります。そのパンを裂くことは主イエスの体が十字架上で裂かれることを表します。

また杯は感謝を献げられました。「感謝を献げる」という言葉は、「祈る」とか「礼を言う」という意味もあるものです。杯に感謝を献げることはぶどう酒に霊的な感謝が与えられることです。霊的な感謝、祈り、礼とは、この契約の血によって罪の赦しが得られる感謝です。

しかしレビ記17:12で禁じられている血を食べることを、なぜわざわざ行うのでしょうか。それはレビ記の前の節の17:11に、「肉なるものの命、それは血にある。・・・血が命に代わって贖うのである」とあり、命の贖いには血が必要であり、新しい命を得るにも血が必要であるからです。

罪の赦しのための動物の血は毎年献げられる必要がありました。しかし神の小羊である主イエスの血は一度で全ての罪の赦しを完全に与えてくださいます。聖餐の制定によって過越の祭りはとって変わられましたので、クリスチャンは過越の祭りは行いません。

現代の教会がパンとぶどう酒をこの時に近い物にしようと拘りを持つのも良いとは思いますが、過越の食事ではなくなったのですから、あえて過越しのパンとぶどう酒に拘る必要はないような気もします。これはエレミヤ31:31で預言された新しい契約です。

主イエスは、大切な戒めを問われて、第一はすべてを尽くして主を愛すること、第二は隣人を愛すること(12:29~31)と言われ、持っている物をすべて献げたやもめと(12:44)、できるかぎりのことをして高価なナルドの香油を注いだ女を高く評価しました(14:8)。

いよいよ主イエスが十字架で、それらのすべてに勝る最高のことをされます。その主イエスの十字架を記念し思い起こす聖餐はただパンを食べて、ぶどう酒を飲むことではありません。聖餐を通して主イエスが十字架につかれたことを思い起こし、その意味を覚えることです。

3、主イエスの契約の血
聖餐のときに私たちが行うことは、第一に、主イエスの十字架の契約の血によって、私たちは贖われて罪を赦されていることを覚えて感謝します。聖餐は他の言葉でも表現されますがその一つがユーカリスト(感謝)です。

第二に、私たちは罪を赦されていますが、意図的ではなくても新しい罪を犯してしまいます。
その罪のためにも十字架につかれた主イエスを思い起こして、犯した罪は直ぐに悔改めます。私たちは聖餐の前にいつも悔改めの祈りを行いますが、聖餐がないときでも罪は直ぐに悔改める必要があります。

第三に、自分の罪が赦されているように、教会員の兄弟姉妹も罪を赦されていることを覚えます。そして、私たちは皆、主イエスを頭とする一つの体であることを覚えて一致することを覚えます。聖餐はコイノニア(交わり)とも言われます。聖餐によって皆が交わり主イエスを頭として主イエスの御体と一つにされます。

第四に、私たちの身代わりとして十字架につかれた主イエスを覚えて、献身を新たにします。毎週の礼拝式でも、悔改めと献身を新たにしますが、聖餐により五感を通して味わいます。
主イエスの体である裂かれたパンを取って食べることは、主イエスと同じ生き方である、十字架を負って生きることを受け取ることです。

また主イエスの血を飲むことは、血は命ですので、新しい命に生きる者とされ、聖霊の導きに従って歩みます。聖餐の恵みに与る者は、主イエスの契約の血により新しい生き方をする者へと変えられ続けます。それでは聖餐は回数を沢山受けた方が良い効果があるのでしょうか。

主イエスがお命じになられたものですから、信仰によって受け続けるなら、主イエスの御体と一つにされて行きます。しかしただ単に食べて飲めば良いというのではなくて、信仰によって受ける必要があります。聖餐の時にぜひその意味を受け止めて味わいましょう。

主イエスは最後に、「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」と言われます。ぶどうの実から作ったものを飲むことをしないのは、民数記6:2の特別な誓願を立て、主に献身するナジル人(聖別された者)の誓いをするときのことです。

主イエスは人間の罪の赦しと救いという特別な誓願のために十字架につかれますが、ナジル人は聖別の期間が終わった時には、ぶどう酒を飲むことができる(民数記6:20)ように、主イエスも神の国では祝って、皆でぶどう酒を飲まれます。

主イエスの血による新しい契約は、私たちの罪を赦すために、主イエスが命を懸けて作ってくださったものです。感謝して覚えると共に、まだ洗礼を受けていない方が主イエスを救い主と信じて、新しい契約に与ることが出来るようにお祈りいたします。

4、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは過越の食事の中で聖餐を制定されましたが、弟子たちにはその意味はよく分からなかったと思われます。聖餐の意味を色々と聞いている私たちにもよく分からないところもあります。

しかし主イエスが命をかけて私たちを救ってくださる恵みを感謝し覚えて、聖霊の導きに従って、悔改め続け、献身を新たに歩む者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。