「十字架」
2026年5月17日 礼拝式説教
マルコによる福音書15章16~32節
主の御名を賛美します。
1、 兵士たちの侮辱
総督のピラトは主イエスを十字架につけるために引き渡しましたが、引き渡した相手は兵士たちです。ローマの支配によりユダヤ人は兵役を免除されていますので、兵士たちはユダヤ人ではない異邦人で、過越しの祭りの期間、治安維持のためにエルサレムに派遣されています。
兵士たちは総督ピラトの官邸の中に主イエスを連れて行きます。そのことから前回の1~15節のことは総督官邸の前で行われたことが分かります。総督官邸はヘロデの宮殿の中にあると思われます。群衆が押しかけて来ていますので、総督官邸の前で行われたのでしょう。
兵士たちは部隊の全員を呼び集めます。ローマの1部隊は6百人位と言われますので多くの人数です。主イエスを十字架につけますが、人々は十字架についてどのような姿勢、態度を取るでしょうか。初めはローマの兵士たちです。ローマの兵士たちはユダヤ人の宗教のことなどは知りませんから、救い主がこの世に来ることも知りません。
自分たちの目の前にいる主イエスは、鞭を打たれて殴られて血が出て傷だらけになっています。人間には残忍な罪の性質があり、自分は安全に見える立場にいて、弱い者がいると、集団で弱い者いじめをすることがあります。このようなことは子どもの世界だけではなく、大人の世界でもあります。実際、この場面では大人たちです。
兵士たちにとってユダヤ人は、普段から自分たちの習慣を貫いてローマの言うことに素直に従いませんので、普段の仕返しの気持ちもあったのかも知れません。王様ごっことして六つのことをして主イエスを侮辱します。
一つ目に、主イエスに紫の衣を着せます。これは兵士たちの着ている外套と思われ、王の服に見立てます。二つ目に、茨の冠を編んでかぶらせて王冠に見立て、三つ目に、「ユダヤ人の王、万歳」と挨拶し始めます。四つ目に、葦の棒で頭を叩き、五つ目に、唾を吐きかけつつ、六つ目に、ひざまづいて拝んだりします。
散々、主イエスを侮辱したあげく、元の上着に着せ替えて、十字架につけるために外へ引き出します。そうしますと、兵士たちが主イエスを総督官邸の中に連れて行った理由は、ただ侮辱するためだけのようです。
2、シモン
十字架への姿勢の2番目として、そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父シモンというキレネ人が通りかかります。この書き方から、シモンの二人の息子のアレクサンドロとルフォスは教会の中で知られている人物であることが分かります。このルフォスはローマ16:13のルフォスかも知れません。
シモンは北アフリカのキレネ出身で過越しの祭りのためにエルサレムに来ていたと思われます。そのことからしますと、「畑から帰って来て」の訳よりも、新改訳の「田舎から来ていた」の訳の方が合う感じもします。
主イエスは昨日の夜からの裁判に続き、ピラトに鞭打たれて、兵士たちに侮辱されて体力も限界だったことでしょう。十字架を担ぐ十分な体力が無かったために、兵士たちは通りかかったシモンに十字架の木を担がせます。
十字架と言いましても、十字架の縦の木は刑場に立ててあり、十字架の横木だけを担いだようです。シモンはこの時に無理やり十字架を担がされます。しかしシモンは十字架を担がされて主イエスを間近に見たことからクリスチャンになり、二人の息子もクリスチャンになったようです。
十字架を無理やりに担がされた者が、積極的に十字架を担ぐ者となります。十字架は初めは無理やりに担がされることもあるのかもしれません。主イエスは、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(8:34)と言われます。自分の手で自分の十字架を受け取ることによって、積極的に十字架を担ぐ者とされます。それが主イエスの弟子となることです。
3、十字架
そして、主イエスをゴルゴタという、「されこうべの場所。」という意味の所へ連れて行きます。そこで没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、主イエスはお受けになりませんでした。飲ませようとしたのは兵士たちです(ルカ23:36)。主イエスがお受けにならなかった理由は、没薬は痛み止めであり、それは人間を贖うための十字架には相応しくありません。
それに関連してか14:25で主イエスは、「神の国で新たに飲む日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」とぶどう酒自体を飲まないと言われています。
それから、兵士たちは主イエスを十字架につけて、誰が何を取るか、くじを引いてその衣を分け合います。現代の私たちの感覚からしますと、自分たちがこれから殺す人間の服等は、貰えると言われても欲しくはないでしょう。ましてや、ヨハネ19:23では下着まで取っています。
それ程に服が貴重品だったのでしょう。この当時、死刑囚の服を貰うのは死刑執行人の役得でした。そしてこれは詩編22:19の、「私の服を分け合い衣をめぐってくじを引く」の御言葉の実現です。兵士たちにとって十字架は主イエスの命よりも分け合う衣に関心があります。
罪状書きには、最高法院がピラトに訴えるために作った、政治的な意味での反逆罪として「ユダヤ人の王」と書いてあります。しかし意味は違いますが、ユダヤ人がその到来を待ち望む救い主として、ユダヤ人の王は正しいことです。罪状書きは奇しくも真実が書いてあります。
主イエスがお生まれになられた時にも、エルサレムにやって来た東方の博士たちは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(マタイ2:2)と言っていました。
十字架への姿勢の3番目として、そこを通りかかった人々です。頭を振りながら、主イエスを罵しります。頭を振るというのは馬鹿にする仕草です。そして、「おやおや、神殿を壊し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」と言います。人々は14:58で偽証した者が主イエスの言葉を捻じ曲げたことを言います。
十字架への姿勢の4番目として、祭司長たちと律法学者たちも同じように一緒になって、代わる代わる主イエスを侮辱して、「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今から十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」と言います。
十字架への姿勢の5番目として、主イエスと一緒に十字架につけられた二人の強盗です。28節が無く、「♰」マークはこの聖書の原本には欠けているものです。一緒に十字架につけられたこの二人も初めは主イエスを罵ったようです。ルカによると一人は主イエスを信じます(ルカ23:40~42)。
今日の聖書個所では「十字架」の言葉を8回使って強調しています。十字架とは何でしょうか。兵士たちにとって十字架、十字架につけられる主イエスは侮辱の対象です。シモンには担がされるものです。
通りかかった人々にとっては、罵りの対象です。祭司長たちと律法学者たちには侮辱の対象です。二人の強盗には罵りの対象です。マルコは、兵士たちと、祭司長たちと律法学者たちが同じ言葉である、「侮辱した」という動詞で書いています。
聖書で同じ言葉を使う時にはそこに繋がりがあることを意味する場合が多くあります。マルコは同じ言葉を使うことによって、異邦人の兵士と、ユダヤの宗教界の最高権威者である祭司長たちと律法学者たちが同じように無知であることを意味しているようです。無知な者は侮辱します。
いずれにしても、十字架につけられる主イエスを人々は、侮辱し、罵ります。しかしこれは2千年年前も今も変わりません。主イエスの十字架の意味を良く知らない人は侮辱し、罵ります。聖書やキリスト教のことを良く知らない人たちの中にもキリスト教に対して好意的な姿勢を持つ人もいます。
しかし現代では人間の理性がすべてだと思う人が多くいます。そのような人たちにとって、理性だけでは理解し難いキリスト教を含めて宗教は侮辱の対象となり易いものです。しかしそれはある意味で仕方の無い部分もあるのかも知れません。何故かと言いますと知らないからです。
クリスチャンでも他の教団や教派、宗教を良く知らない人は、他の宗教を侮辱することがあります。これは宗教に限らず、スポーツ等でも同じです。なぜ侮辱するのかというと、この時の兵士たちと同じように知らないからです。
どのような宗教でも真面目な人は、人間の限界を知っていて救いを求める人たちです。そのような人を自分の宗教と違うからといって侮辱することは信仰者として正しい姿勢ではありません。宗教に限らず、自分と違う考えを持っている人を尊重する必要があります。
宗教に限ったことだけではなく何でもそうですが、正しく知って上で批評するのではなくて、何も知らないでただ侮辱するというのはとても愚かなことです。何かを侮辱する人の話を聞くと、その人は自分が侮辱していることの内容を殆ど何も知らないということが多くあります。
何かを侮辱するのは自分の無知を曝け出すことであり、それは信仰者として相応しい姿勢ではありません。他人を侮辱することはせ聖霊の働きではなく、肉の働きです。
4、主イエスの十字架
通りかかった人々も、祭司長たちと律法学者たちも、二人の強盗も、「十字架から降りて自分を救ってみろ」と言います。それは全能の神の子なら十字架から降りることが出来るはずだという勝手な思い込みです。
十字架は呪われたものであり、誰もが避けることを望むものであって、好き好んで十字架につく者はいないという思い込みです。しかし、主イエスはご自身の目の前で侮辱し、罵る無知で愚かな者たちを十字架の上で耐えられるだけでなく、憐れまれます。
しかしこのような場面は次元は違いますが現代でも目にすることがあります。反抗期の子ども等が親や先生を侮辱したり罵っても、子どもを愛する親等はじっと耐えて子どものためにと尽くします。年老いた人を介護する場面でも同じようなことがあるかもしれません。そのような場合には必要な時には必要なことを言うことが大切な時があるのかもしれません。
主イエスにとって十字架はどのようなものなのでしょうか。主イエスは人々との思いとは全く正反対で、救いのために十字架につけられました。主イエスにとって、救いは十字架から降りることではなく、十字架につくことです。
全人類の罪を一身に背負って、全人類の罪の赦しのために十字架につけられました。それで主イエスはいくら、「十字架から降りて自分を救ってみろ」と挑発されても、そのような愚かな言葉には乗りません。主イエスはいつも父なる神の御心を求めて御心を行われます。
それが救い主の生き方です。救い主イエス・キリストがご自分の命を掛けて、私たちを贖ってくださった救いを、聖霊によって感謝して受け入れましょう。そしてもしもクリスチャンであるということで、侮辱され、罵られるようなことがあるとしても、主が歩まれた十字架の道に与らせていただいていると受け止め、主から力をいただいて歩ませていただきましょう。
5、祈り
ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。主イエスは人々の無知によって十字架につけられました。しかし、主イエスはそのような人々を含めて、すべての人の罪の赦しのために十字架につかれました。聖霊によって、十字架の意味を正しく知り、罪を悔い改め、御心に生きる者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
