「主から出たこと」

2026年9月6日礼拝式説教  
ヨシュア記11章1~23節

主の御名を賛美します。

1、カナンの北部の占領

10章でヨシュアはカナンの南部を占領しました。ハツォル(「集落」の意)の王ヤビンはこのことを聞きました。ハツォルは10節にありますようにカナンの北部の王国の盟主です。ヤビンはカナンの北部の王たちやあらゆる人々に使いを送りました。

彼らは全軍勢を率いて出撃し、「兵の数は海辺の砂のように多く」はとても多いことを表す表現です。馬も戦車も非常に多く、カナンの南部に比べて人数も多く、馬や戦車等の兵器もあり手強そうです。メロムの水場のそばに陣を敷きましたが、その理由は兵も馬も非常に多くいますので、水が必要であるためと思われます。

そのような状況で主はヨシュアに三つのことを言われます。一つ目は命令であり励ましである、「彼らを恐れてはならない」です。「恐れてはならない」は聖書で一貫して語られている言葉です。二つ目はその約束、理由である、「私は明日の今頃、彼らすべてをイスラエルに渡して殺させる」です。

信仰者の敵と戦われるのは主ですから信仰者は何も恐れる必要はありません。三つ目は命令で、「あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼き払いなさい」です。主の言葉を聞く人が従い易いように、命令、約束、命令の順番で語られます。

ヨシュアは全軍を率いて、メロムの水場にいる彼らを急襲しました。ヨシュアは主に命じられたので直ぐに行動したと思われますが、直ぐに行動したことは戦術的にも正しい判断です。メロムの水場は川が流れていて、樹木も多く生えています。

彼らは兵器として馬と戦車を非常に多く持っていますが、それらは平地では役に立ちますが、川や樹木が生えている所では動き回るのが難しく、余り役に立たないからです。主は彼らをイスラエルの手に渡されたので追撃し、一人残らず討ちました。ヨシュアは主が言われたとおりに、馬の足の筋を切り、戦車を火で焼き払いました。

少しもったいないような気もします。イスラエルは兵器を持っていません。この後も戦いは続きますので、馬や戦車を持っていたら役に立つと思われるからです。主はなぜ馬の足の筋を切り、戦車を火で焼き払うことを命じられるのでしょうか。

聖絶ということもありますが、私たち人間は目に見える馬や戦車があると、それに頼ってしまいがちです。しかし主はイスラエルが兵器に頼るのではなく、頼るべきは主であることを教えるためであると思われます。

この時、ヨシュアは引き返してハツォルを占領し、王を剣で打ち殺しました。イスラエルはそこにいた生きているものすべてを剣にかけて討ち、滅ぼし尽くしました。息のあるものは一人も残らず、ハツォルは火で焼かれ、これらの王たちの町もすべて滅ぼし尽くして占領しました。

イスラエルが丘の上に築かれた町は焼き払わなかったのは、後で分割して住むイスラエル人にとって利用するのに便利だったためと思われます。ただハツォルだけは別で、ヨシュアはこれを焼き払いました。これはハツォルは不道徳な悪が満ちていたためと考えられます。

これらの町の戦利品と家畜は、イスラエルの人々がことごとく自分たちのために奪い取りました。ただ、人間は皆、剣にかけて討ち、滅ぼし、息のあるものは何も残しませんでした。少し分かり難いことは、家畜は奪い取ったのですが、息のあるものは何も残さなかったということです。日本等では家畜も息のあるものと考えると思います。

しかし聖書で息のあるものは、創世記2:7で神が鼻に命の息を吹き込まれた人間だけです。息という言葉には霊の意味もありまして、神のかたちに造られ息を吹き込まれたのは人間だけです。それだけに、神のかたちに相応しく、御心に従って生きることが求められます。他の生き物とはまったく異なる存在であり、責任も求められます。

主がその僕モーセに命じられたとおり、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行ないました。モーセは主に命じられたとおり、忠実にヨシュアに命じ、ヨシュアも忠実に行いました。主に忠実であるところに祝福が伴ないます。

ヨシュアはこの地のすべてを獲得しました。16節の前半の「山地、ネゲブ全土、ゴシェンの全土、シェフェラ」は、先週の10:40で獲得したカナンの南部のことです。16節の後半と17節はカナンの北部で、ヨシュアはすべての王を捕らえ、打って殺しました。

ヨシュアは長い間、これらすべての王たちとの戦いに明け暮れました。「長い間」について正確には分かりませんが註解書は6、7年と言います。聖書の記事からの計算ですと、14:7、10でカレブはカデシュ・バルネアから遣わされたときから45年がたったと言います。カデシュ・バルネアからゼレド川を渡り荒れ野を出るまでは38年ですので(申命記2:14)、45年-38年=7年ということになります。

同じ頃、ヨシュアはカナンの南部等に攻め込み、アナク人をその町もろとも滅ぼし尽くしました。アナク人はヨシュアとカレブを含む12人がカナンの地に偵察に行ったときに(民数記13章)、偵察隊の10人が恐れた巨人の部族です。今回は恐れずに滅ぼしました。ただ、ガザ、ガト、アシュダドには残っていますので悪を滅ぼし尽くすことは簡単なことではありません。こうして、この地の戦いは終わりました。

2、主から出たこと

今日の中心聖句で、「彼らの心をかたくなにしてイスラエルとの戦いへと向かわせたのは主から出たことであり、彼らに憐れみをかけずに滅ぼすためであった」と言います。複雑な思いにさせられる御言葉です。

全知全能の主が、彼らを滅ぼしつくすことを目的として、彼らの心をかたくなにしてイスラエルとの戦いに向かわせました。それは主から出たことです。この御言葉を読みますと出エジプト記7:3、4の御言葉を思い出します。

先週もこのような内容がありましたが、このようなことはイスラエルにとっては喜ばしいことですが、滅ぼし尽くされるカナンの先住民やエジプトのファラオにとってはたまったものではありません。これはイスラエルに対する、えこひいきではないかと感じてしまうほどです。

全知全能の主によって心をかたくなにされるのですからカナンの先住民もファラオも逃れようがありません。それは、「彼らに憐れみをかけずに」です。彼らに憐れみをかけない理由は、申命記20:18の、「彼らがその神々に対して行ってきたあらゆる忌むべき行い」のためです。

しかしカナンの先住民がすべて滅ぼされたのではありません。例外がいます。ギブオンに住むヒビ人です。「ギブオンに住むヒビ人以外に、イスラエルの人々と和平を結んだ町は一つもなかった」のです。滅ぼされたカナンの先住民と救われたギブオンのヒビ人を分けるものはどういうことでしょうか。

それは驕り高ぶることなく謙って、現状を良く見極めて、このまま行ったら今後、自分たちはどうなるのかを冷静に見通したからです。そして9:24の言葉を答えました。彼らは、茂原キリスト教会70周年の御言葉である、創世記16:8の「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」を謙虚に考えました。

そしてあらゆる手段を用いて救いを真剣に求めました。これはギブオン人だけではありません。2章の遊女ラハブも同じです。ラハブは自分の嘘が明らかになった場合の自分の命の危険も顧みず、同胞に嘘を付いて騙してまでして家族を救いました。

ギブオン人も同じです。嘘はいつかは明らかになり奴隷とされることも覚悟の上で救いを求めました。そこまでして救いを求めたラハブもギブオン人も主は受け入れられます。

しかし、そうは言っても、ラハブやギブオン人は冷静に考えて嘘を付くことができました。しかし、エジプトのファラオやカナンの先住民は主に心をかたくなにされてしまったのだから、どうしようもないのではないかと思われるかも知れません。問題はなぜ主は彼らの心をかたくなにされたのかです。

主がエジプトのファラオの心をかたくなにされたのは、10の災いの中で後半の6番目の腫れ物の災いからです。前半の5つの災いのときまでは、ファラオ自身が心をかたくなにしました。5番目の災いのときまでに、心をかたくなにしないでイスラエルを解放していれば、それ以上の災いは下されないで済んだはずです。

しかし結果的にはそこを超えてしまうと、もう主が心をかたくなにされて滅びに向かってしまいました。誰でも自分のことは気が付きにくいものですが、他の人のことは分かり易いようです。色々な事件の報道等を見ていますと、もっと早い段階で自分の非を認めて、対応を変えていれば、そこまで大事に至らずに済むこともあるのではないかと感じることもあります。

しかし心をかたくなにしてしまうために、最悪の結果を自分自身の手によって招いてしまいます。心をかたくなにしてしまうこと自体が主の裁きの始まりです。これはクリスチャンであっても同じです。クリスチャンも罪を赦される罪人ですので、罪は犯してしまうことがあります。

そのときに聖霊の導きに従って心から悔い改めるならばすべての罪は赦されます。そのために主イエスが十字架に付かれていますので、赦されない罪はありません。しかし聖霊の導きに反して、心をかたくなにしてしまいますと裁きがどんどんと重くなって行ってしまいます。

私たちの先祖であるアダムとエバは神が禁じられた善悪の知識の実を食べる罪を犯してしまったので、すべての人間は罪を持って生まれて来る罪人です。そのすべての人の罪を赦し、救うために主イエスは十字架に付かれました。

心をかたくなにすることは二つのことで間違っています。一つ目は、私たちの罪の赦しのために主イエスが十字架に付かれたことを無駄にすることです。二つ目は、自分自身を滅びに追い込むことです。私たちの罪の赦しのために主イエスが十字架に付かれていますので、悔い改めるのに遅過ぎるということはありません。

この世のことはもしかしますと取り返しのつかないことはあるかも知れません。しかし全知全能の主がすべての人の罪の赦しと救いのために主イエスを十字架に付けられたのですから、それを受け入れる人には主の最善がなされます。主に期待して、聖霊によってかたくなな心から解放していただき祝福の道を歩ませていただきましょう。

3、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。カナンの先住民は悪を積み重ね、心をかたくなにし、自らの手によって滅びを招いてしましました。私たちもときに心をかたくなにしてしまい悪循環に陥ってしまうことがあります。私たちの罪の赦しのために十字架に付かれた主イエスをいつも覚えて、聖霊の働きによって、かたくなな心から解放されて祝福の道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。