◆神のはからい

山脇正子副牧師

昨年の十月三十一日、義父は天に帰り「教団墓地に納骨を」との遺言だったことで、四月五日教団の記念祭の埋葬の時まで,牧師館の床の間に写真と共に置かれている。その両脇に花を飾り、最後まで座っていた籐の椅子に、礼拝に来るとき着ていた背広、ベレー帽、かばんを置いて偲んでいます。

 私が、はじめて義父に会ったのは、結婚するずーっと前、鉾田教会出身の献身者旧姓森作弘子先生の牧会する辻堂教会においてでした。特別集会があり、講師は義父、司会者森作師、奏楽者私ということで…。集会後「あのオルガンを弾いている中学生は何という名前ですか」と、「先生あの人は茅ヶ崎教会の牧師ですよ」と、叱られてしまったと。「本当にあの時は中学生に見えたのだと…」義父から見ればそのくらいだったのでしょう。

また不思議なことに、私は、鉾田教会出身の旧姓小沼愛子師に導かれて入信したのですから、霊の孫ということになります。

その後は「常時喜悦、不断祈祷、万事感謝」と、生涯色紙に書き続けた、故米田豊教授の茶の間で何度も会っていたのです。

今から四十年も前のことですから、義父は五十代前半、暖かいのんきな父さん的な姿を感じたものでした。それから七年ほどして私は山脇と結婚し、それぞれの牧会の場で過ごしました。

晩年も晩年、茂原に両親が住むことを決断して、愛する兄姉に支えられ、幸せな数年を過ごし、私も、義父との交わりのチャンスを与えられました。ユーモアを持ちながらも威厳があり、何もかも見抜かれたような気がします。義父のプライドを、決しておかしてはいけないと心に思いながらかかわったことを、懐かしく思います。毎年新しい日記帳を買い、細かい字で書いていましたし、聖書を大きな声を出して読み、たくさんの人の名前や事柄を祈っていました。

 ベッドの上の父に「望さんに何か言うことがあったら話しておくけれども…」と声をかけると、「何もありません」ときっぱり…。最後に、入院中あんなに会いたがっていた義母のいる共楽園に十月十一日退院でき、私たちが、そばにいても、いつ息をひきとったか分からないくらい。「人は生きたように召される」といわれますなら、あまりにも静かな召天でした。

主の聖徒の死はその御前において尊い。(詩篇116:15)

2003年2月号