神に向かう心
山脇望牧師
〈口と手〉
3人の若者が雑談しています。それなりに楽しそうであり、そんなに深刻な内容の話ではないようだ、と思われます。
でも、その光景がとても奇妙な感じを持ちました。3人のうち2人は、しゃべりながら手にはケータイを持ち、それに向かって手と目があるのです。口で話しながら手はピコピコ……と、動いている。不思議な光景とうつるほうが、奇妙なのでしょうか。
電車に乗っている若者がいます。耳はイヤホンをつけ、手には本を読み、目はそれに向かっています。それで読み、聞いているというのでしょうか。“読んでいる”という言葉を用いるに、自信がありませんから、“向かっている”としましたが…。
〈二心〉
これは今日はじまったことではありませんし、もちろん若者だけの現実ではありません。まさに、それは「人」の姿であることを聖書は教えております。
神に特別に選ばれましたイスラエルの人とその姿を神が見た時、まさにその光景そのものでした。
「この民は、口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ……」と、生きていたのです。
どれほど真剣に私に向かっているのか、どれだけ真剣に人々に語りかけ、働きかけをしていってよいものか、さびしい心がそこにあったことは真実です。
それでありつつ、神は真剣です。
「言は肉体となって私たちのうちに宿った」と、主イエスとなって、この世の私たちに言葉を真剣に発してくださいました。
〈一心〉
いつの時でも、人の心に大切なことは、“一心”です。神の前に、人の前にそれは交わりをなすものとしての必須条件であることにはまちがいありません。
「あなたがたはわたしをたずね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしをたずね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと言われる」(エレミヤ9:13・14)
と、“二心”でない心です。この「一心」という言葉は、「すべての心」ということです。
〈一心に神に向かう〉
私たちの生活環境は「一心」になることが大変難しいことです。物があふれ、音があふれ、なすべきことにあふれています。その中で、何よりも大切な、無くてはならない神に向かって一心になる時を確保する、これこそが生活を充実させ、豊かにしていきます。
「無くてはならないものは多くはない。いや一つだけである」と主イエスは語られます。無くてはならないひとつのこと、すなわち神の前に、神に向かって、神と交わるひとときを大切にする、この生活に一心をもって、臨んでいくことを養っていきたく思います。
2003年5月号