今の時に生きる
山脇望牧師
〈造花のバラ〉
ひとりの人が毎日、あるレストランで昼食を食べていました。
そのテーブルの真ん中には、美しい赤いバラの花が差してある小さな花瓶が置かれてありました。その人はひとりぽつんと座って食べており、その美しいバラが唯一のなぐさめであり、気持ちをほぐしてくれておりました。
ところが、毎日私の気持ちは変化しているのに、このバラはいつも同じであることに、ふと気づいたのです。疑いの思いでそのバラにさわってみると、それは造花だったのです。大変不愉快になり、そこに食べに行くことをやめたといいます。そのバラには命はなかったのです。
〈過去に生きる〉
造花のバラを命のあるバラと思って生活していた人、それは過去の経験、過去の出来事、過去の実績、過去の生活、過去の…と、もちろんそれらは今日の私のために何らかの働きをしていることは事実です。しかし、それはその時、命をもって働いていたのであって、今の時は、それを終えているのです。あたかも造花のバラのようなものでしょう。
先日、背広を購入しました。「何体ですか」ときかれ、「A体だと思います」と、試着してみると、「AB体ですね」となりました。幾年かの経過とともに体型が変化していたのです。過去の体型は死んでいたのですから、今の私の体にあてはめて考えることはできません。それを無理して行動したとしたら、どうなるでしょうか。窮屈で、着ないで、吊るしておくだけでしょう。
何と多くの人は、今の時に生きているようで、心は過去の中にいきていることでしょう。それがあたかも生きているバラであるかのように受けとめているのです。
〈今に生きる〉
自然界の命の営みこそ、実に万物の霊長なる人間の教師であるといったらよいでしょう。常に今に生きています。植物にしても、枯れている木、枝はいつも同じで、少しずつくずれておりますが、変化がありません。生きているものは今の時に生きております。
私たちは何に向かっている自分であるかが問われています。生ける、命あるものに心が向かっておりますように。すなわち主に向かう日々でありますように、と願います。「主イエスキリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」のです。すなわち、常に生きておられ。恵みのみわざを行いつづけておられます。
日々、そのお方に向かっている私たちであること、そして新しい主のみわざにあずかることを心にとめましょう。
2003年7月号