主イエスを心に迎え入れる

山脇望牧師

彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった - ヨハネ 1章11節 –

(受け入れられない子供)

 読んでいる新聞に毎日、「いじめられている君へ」「いじめている君へ」と題して、それぞれの著名人がペンを走らせています。ご自身の学生時代の事を思い起こしつつ、今日の学生の皆さんに少しでも力になり、生きる励みになることを願っています。

 この文章を読んでいくと、「いじめの現象」は決して今日はじまったことではなく、ずっと以前から巻き起きていたことを知ります。もっとも、聖書を読むとき、カインとアベルの時からですが・・・。

 けれども、今日、それが特に深刻化しているように思います。

 今日、教育基本法なるものの改正が国会にて議論されています。その中で宗教の必然性を語っている議員がおりました。宗教と言っても、どの宗教を言っているのかわかりません。仏教を中心とした話であろうと思いますが、経済的、物質的豊かさを追求することによって、精神的にも豊かになっていくと、生きてきたことへの反省のあらわれでしょう。

(受けいれられないイエス)

 今年もクリスマスをお祝いする季節になりました。幼子イエスとしてこの世にきてくださいました。けれども、主イエスはどのようにあつかわれたのでしょうか。決して歓迎されてはおりません。ある人は無関心であり、ある人は歓迎をよそおい、極度のいじめを計画しております。

 それでありましても、すべての人を見捨てることなく、主イエスをこの世に遣わしたことによって、心より受けいれていることを神は明らかに示されました。

 物質至上主義に生きている日本人です。内容的には唯物主義の共産主義思想に生きているといっても過言ではないと思います。

 あらためて「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる」が心にとどまります。

 「言は肉体となって、わたしたちのうちに宿った」のように。言である主イエスです。すなわち、すべての人はキリスト・イエスにあって、ひとりの人として本当に生きるのです。

 クリスマスを迎えますこの時、「客間には彼らのいる余地が無かったからである」(ルカ2:7)にあって、ひとりでも多くの人の心に主イエスが迎え入れられますように、その事に心しつつ、クリスマスの備えをいたしましょう。

2006年12月号