ただこの一事

山脇望牧師

 サッカーのワールドカップ大会がドイツにていよいよ開催されています。各地区の予選大会を勝ち抜いてきたチームが激突する試合を全世界の人々が注目し、応援いたします。

 サッカーの起源は、昔部落ごとにチームを作り、ボールを蹴り、ドリブルしながら相手の部落の城門に入れる競技があったことにあるのではないかと言われています。

 ボールと広場があれば小さな子供でも楽しむ事ができ、パンツ一枚、裸足でボールを追いかけている光景を見ることがあります。

 日本のサッカーが世界に知られるようになったのが、昭和11年のベルリンオリンピック大会でありました。まったく無名の日本チームが何と、優勝候補のスウェーデンチームを3対2の逆転勝利をおさめたのです。すなわち、対戦チームよりも多くゴールにボールを入れたという事です。

 強い、弱い、どれほど有名な選手がおるかが目的ではなく、ボールを相手チームより多く入れるかどうか、この一事のために競技するのです。それは競技するもの、応援者、観戦者の思いです。なかには華麗なわざに魅せられて、そのために観戦する人もいるでしょうか・・・・。

 私達の生活を考えますとき、それぞれに働きをなし、わざをしております。足もとを見つめ、まわりを見つめ、また自分の状態や立場を見つめて・・・。

 しかし、そのすべてのわざが「ただこの一事を努めている」となっていることがどんなに大切なことでしょう。サッカーの競技と共通しています。「目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞与を得ようと努めているのである」(ピリピ:3-14)のすがたです。

 この一事が、天国に向かっていますように。そのための今のわざでありますように。

2006年6月号