地の塩として

山脇 望牧師

 小学生の時であったと思います。

先生は、『日本は外国から信用されない国でした』と語られたのです。

鉛筆を輸出しました。それは両端だけに芯をつけ、少し使うとそれがなくなってしまうものだったというのです。今でも忘れない、強い印象を受けました。

 あれからどれほど成長し、成熟した国となっているのでしょうか。ハンバーグの中にとんでもない他のひき肉が混ぜられ、高級食品として売っていた製品、地鶏と称して、実際は卵を産まなくなった二束三文のめす鶏であったといいます。

あるいは賞味期限を不正に変えたり・・。

 それは氷山の一角ということなのでしょうか。それとも、これは特別なことなのでしょうか。社会がこのように混沌とし、乱れてくる時、その中で大切な役割を担ってきたのが、他でもないキリスト教会だったのです。

 今日、福祉国家といわれておりますが、その働きの発端は、実にキリスト教精神でありました。

 経済生活にいたしましても、資本主義経済はキリスト教精神による事は言を待ちません。勤勉、忠実に働き、金銭も神より託されたものとして管理し、浪費することなく蓄えた結果、資本が増加したというのです。目的は“神の栄光のために”であり、資本を多くする事ではありませんでした。

 今日、このような社会になっている中にありまして、もう1度キリスト教会のはたす役割の大きさを心に留めることはとても大切です。キリスト者ひとりひとり「あなたがたは地の塩である」(マタイ5-1)のみ言葉を心にとどめ、そのように生きることを求められています。

 「塩」自身は直接口に入れることはありません。他のものの中に、そのものと共に、塩そのものの姿は目に入る事はありませんが、他のものを本当の意味において生かします。

 私たちがそこにおることによってまわりを生かし、味をつけることが出来ますように。好ましい環境となるために用いられますように。

 そして「塩」そのものだけでは好まれませんし、食べられるものではありません。でも、無くてはならないものです

2007年11月号