神の武具で装う

山脇望牧師

《天使から悪魔へ》

 「教室の悪魔」と、なにやら穏やかでない題名と著者がわたしと同姓であることに目がとまり、購入して読んでみました。

 学校におけるいじめの問題の深刻さを実際に、その仕事に従事している中の事例から書き進めています。

 いじめの現実、うっかり地雷を踏んでしまった人のように、普通の生活の中に、当然の出来事のなかに。まったく予想しないところからおきてくるというのです。まさに悪魔が密かにそして鋭くいじめようとするものを捜し求めているという姿です。

 思想家ルソーは、「人は創造者の手から出るときは善であるが、人の手に陥る時すべては悪になる」と語っておりますがまさに今日の現実の姿です。人は混沌としている状態から次第に進化して、ひとりの人として造られていく、という思想が通じない深刻な状態です。これもひとつの過程だ、というのでしょうか・・。

 これは学校という狭い社会にあるゆえに目立つのですが、広い社会にあっては何かいろいろのものにぼかされてしまいます。社会は“悪魔生産工場”になってはいけないのです。

《悪魔から天使へ》

 「かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち不従順の子らの中に今も働いている霊にしたがって歩いていたのである」(エペソ 2:2)とあります。「かつては」とわたしたちも悪魔の僕として歩んできました。巧妙に他の人々をいじめ、罪に陥れ、歪めてしまったことは否定できません。

 そのわたしたちが、ただ主イエスの恵みの救いによって、「私達は、神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」(エペソ 02:10)にされたのです。悪魔の支配下にある社会に合って、私たちは、そして教会は主イエスにあって、悪魔的生き方から、神のみ心に生きる天使の生き方に造り変えられる人が起こされるために働きを進めております。

 この働きは、私たちの知恵や能力だけではどうにもなりません。「ただ聖霊があなた方に下るとき・・」と、神の霊による働きです。

 悪魔はなかなか巧妙です。いろいろの手段方法を用いて、悪魔の僕から天使の器になる事を許しません。

 それゆえに「悪魔の策略に対抗して立ちうるために神の武具で身を固めなさい」(エペソ6:11)にありますように、神が備えてくださっております武具をまといましょう。敵を甘く見ることがありませんように。光の天使の装いで近づいてきます。

 伝道とは、まさに、悪魔の陣地に入って、その奴隷となっている人々を救い出すことです。

2007年2月号