命のパンになる

山脇望牧師

「そこでイエスはパンを取り・・」 ヨハネ6:11 –

 今年も聖霊降臨を記念するときとなりました。主イエスの降誕を記念しますクリスマス、主イエスの復活を記念しますイースター、そして主イエスによる救いの恵みがすべての人に宣べ伝えられるためのペンテコステの記念日です。

 父なる神が約束し、主イエスが成就し、聖霊によって伝えられる、まさに三位一体の働きといったらよいでしょう。

 聖霊によって恵みの働きがすすめられるために必要なのはその働き人です。どのような人を神は用いられるでしょう。

 それは「五旬節の日が来て・・」とあります。「聖霊降臨」と「五旬節」とは無関係ではないと思います。五旬節、それは大麦の収穫のときから数えて50日目です。小麦の収穫のときです。小麦の粒を粉にし、それを練ってパンを作り、神の前に収穫感謝として捧げます。

主イエスは「わたしは命のパンである」と言われ、「教会はキリストの体であって・・」と実に教会こそ、すなわちキリスト者ひとりひとりが、“命のパン”としてそこに生かされているということです。

 そのために、まず、パンとされる必要があります。小麦の粒が粉にされる事から始まります。「粒」と「粉」、同じものでも「粒」は米がそれぞれ立っていますばらばらです。しかし「粉」は米が分けられています。砕かれて自分も他人も融けあっているようにひとつとされています。

 しかし、それだけではパンになりません。人間の社会には、クリスチャンでなくとも、粉のように柔らかく練られた人、立派と思われる人は少なくありません。クリスチャンより立派と思われる人もいるのです。ただひとつの違いは、「聖霊の火」を通過しているかどうかです。パンだけが神様にささげられ、人々にささげられて用いられます。

 私たちは、「命のパン」として働くことを期待されています。そのために、

①小麦の粒が粉にされるように、自分自身が砕かれている事

②聖霊の火を通してパンとされる事

③神様にまず捧げられること

主イエスはパンを手にとられます。

2007年6月号