神の慈愛と峻厳(しゅんげん)

山脇望牧師

 収穫を迎える稲の穂は、重く垂れ下がり、刈り取られる時を待っているみたいです。今年も豊作でしょう。

関係者の働きもありますが、多くは太陽が昇り、雨が降り・・と自然の恵みによることを覚えます。それ故に、自然の神々に感謝の気持ちを表します。

 しかし、私たち、天と地の創造者である神を信じる者は、「天の父は・・太陽を昇らせ・・雨を降らしてくださるからである」(マタイ5-45)を心にとどめて、神に感謝を捧げます。

その意味で、日本の国は、まだ豊かに神の恵みの受けいれる心をもった国でありましょう。

 隣国北朝鮮が大きな話題となっております。拉致問題、ミサイル、核開発問題などで、周りの国々に不安と恐れを撒き散らしております。

 では、国の内部はどうなっているのかといえば、旱魃(カンバツ)で作物が十分穫れず、多くの食糧援助を諸外国から受けています。

 そうかと思っていたら、最近は大雨で大洪水となり、水が氾濫しています。これでまた作物が穫れなくなるのでしょうか。隣国韓国から多くの食糧援助の物資が運び込まれておりました。

 これは決して、天災、人災として片付けてしまう事ではありません。

 朝鮮動乱前には多くの教会があり、クリスチャンがおりました。今日はどうでしょう。公式には完全にキリスト信仰は消し去られました。

神の祝福も恵みも排斥したのです。

まさに北朝鮮の現状は、“神災”といっても過言ではないと思います。

 聖書を読んでいきますと「・・数年雨も露も無いでしょう」(列王記上)17-1)、「・・わたしは雨を地に降らせる」(列王記上18-1)と語られているところがあります。天の父のご支配、み心のもとにあるという事です。

 使徒パウロは「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ11-22)とありますように、神は哀れみと恵みの方であると同時に、峻厳なる方である事を忘れてはなりません。

 主イエス・キリストによる十字架の出来事、それはすべての人の罪を身に負ってくださる神の愛、哀れみであります。

それは罪に対する神の峻厳のあらわれでもあるのです。

 日本の国は、まだ教会の数、クリスチャンの数は少ないとしても、神の恵みを受け止める空間を持っているのです。この空間が更に広がっていきますように。

2007年9月号