悲しみを喜ぶ
山脇望牧師
荷物を整理しているなかから、写真を取り出して見ております。火災で隅の方が焼けて灰でくすんでいるものを洗いつつ、「よく焼けなかった」と、過去が焼け落ちることなくよみがえってきます。高校時代の修学旅行、卒業写真……とてもなつかしい。
あれから半世紀近い歳月が流れていることになります。多くの人々に出会い、楽しみ、共に喜び、共に泣き、涙を流し、辛い思いをし、好まれなかったことあり……と、ありました。
今日、ここに私がおるということ。今日の私、それは決して事務的、機械的な生活の中にあって、のことではありません。甘いもの辛いもの、しょっぱいもの……すべてが微妙な味を作り出すように、今日の私を作っているのです。
大切な出会いがあり、重大な決断がそこにありました。その連続としての今日です。これからもどのような人に出会い、決断をしてきました。その連続としての私です。これからもどのような経験を重ねていくのでしょう。楽しみでもあり、一抹の不安と恐れがないわけではありません。大変厳粛な思いがいたします。
これはすべての人に語ることのできることだと思います。まさに人生は出会いで決まります。どのような人に出会うことができましたか、それによるのです。
良きにつけ悪きにつけ、多くの人との人生の方向、内容に影響をおよぼす出会いのために用いられてきたのです。これからもそうでしょう。
先日、天に召されましたN姉の告別式に出席して、改めて死別の悲しみを覚えました。その時、思い起こされた言葉に、「別れることを悲しんではならない。悲しむことのできる人に出会うことができたことを喜びなさい」があります。
出会いの素晴らしさは、出会いの喜びと共に別れの悲しみの中にあることを知ります。
どれほど心を開き、
どれほどその人を受け入れ
どれほど共感したかです。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである」と、十字架の死を前にゲッセマネで祈られた主イエスです。「アバ父よ……」と、父なる神との交わりの中にどれほどのものをいただき、与えておられたことでしょう。それほどの深く、強く、豊かな交わりであったことを知ります。
神ご自身との、そして他の人との交わりがこのようなものでありますように。
私たちも悲しむと共に、悲しまれる人として歩むことができますように。
2008年2月号