私の転機(その1)

古川信一牧師

 私は大学を卒業して13年間の社会人生活の後、神様のご用をするようにとの導きが与えられました。それは私の人生の大きな転機でした。そのきっかけとなった一つの信仰経験があったのですが、今を遡る11年ほど前、私は愛知県で自動車製造の仕事に従事していました。その頃の私は、挫折感と焦燥感に苛まれていましたが、それは学生時代から目指してきた社会化の教師への道が閉ざされてしまったダメージが大きかったことによるもので、就職に失敗してしまったという意識をずっと引きずっていました。

 クリスチャン家庭に育ちましたが、将来は牧師にという思いはなく、比較的順調に進んできた私にとって、思う道に行けなかったことは、それまでに味わったことのない大きな挫折の経験でした。それ以来過去を悔やんでばかりいて、どうしたらこの失敗を埋め合わせられるか、どうしたらこの遅れを取り戻せるのか、そんなことばかり考え、何かに追い立てられるような感覚をもちながら、安らぎのない日々を送っていました。自分の新しい目標、それなりの充実感を感じられる道を何とかして見いだそうとして、もがき続ける生き方の延長線上に、あるとき四国の実家を離れる事を決意し、愛知県で自動車製造の仕事に就くことになりました。会社の寮に入って、肉体的にも精神的にも厳しいライン作業を、身も心もすり減らすようにして続けていました。

 そんなある時、その経験が与えられたのです。それは聖書の言葉が心の深いところに触れるという経験でした。御言葉の光が心の底にまで届いて、その輝きの前にひれ伏すような経験でした。

 それは、夜勤明けのある秋の穏やかな昼下がりのことでした。疲れた体を引きずるようにして、静かに聖書を開きました。その時開かれたのが、コリント第二の四章七節の言葉でした。私はそのとき、御言葉の光に自分の本当の姿を照らし出されたように感じました。失敗を取り戻したいとか、皆を見返してやりたいとか、いわば自分の力で必死に器の外側を磨いて、見栄えよくすることしか考えられなかった自分の愚かさを見せられたように感じました。

 心のどこかでは、そんな生き方をすればするほど疲れを覚え、安らぎから遠ざかってしまうだけだと感じながらも、挫折して情けない自分を認めたくなかったのだと思います。

でも、その時気づかされたのです。

自分は「土の器」に過ぎないのだと言う事に。

ー続くー

2008年6月号