古川信一牧師

今年もまた、桜の季節が廻ってきました。春は、人も自然も、命の芽吹きの季節、新しい出発の季節であり、これからは田植えや、畑に種を蒔くといったことが、本格的に始まっていくシーズンでもあります。

 イエスは〈四つの種〉を題材に、たとえ話をされました。当時種まきは、風にまかせて行われたので、種によって、いろいろな場所に落ちるのですが、一つは、石地に落ちた種でした。

そこは土が深くないので、

すぐ芽を出したが、日が上ると焼けて、

根がないために枯れてしまった。

– マタイ13:5~6 –

このことで、イエスが示そうとしておられるのは、「御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人」の姿であり、結局のところそういう人は「その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう」と語られています。

この石地に落ちた種が成長できない鍵は、「根がないために」ということに尽きるように思われます。その種が豊かに成長していけるかどうかは、地中にしっかりと根をおろすことができるかどうかにかかっていると言ってよいのではないでしょうか。

根は外からは見えませんが、地中から水や養分を吸収する植物の生命線であり、大きな木であれば、その枝の広がりほど、その根も地面の中に、大きく張り巡らされていると聞いたことがあります。まさに目に見えない、外からは隠れている根が、目に見える木の全体を支えていると言わなければなりません。

そのような根とは、信仰生活や教会生活という観点から言うと、何を意味するのでしょうか。

それは〈祈り〉と言ってよいのではないでしょうか。祈りは隠れた性質をもっており《マタイ6:6》、形として目に見えるものではありませんが、祈りを通して、復活のイエスの命の養いを、日々新たに受けることができます。祈りの根が深ければ深いほど、より豊かな御言葉の養分が、深く豊かに流れ込んでくることでしょう。

根が無ければ、花は咲かず、実もならないように、それどころかその木は立っていることもできないはずです。決して目立ちませんが、地味で隠れた祈りこそ、目に見える私たちの全生活を支える力であることを、改めて深く心に刻みたいものです。見えない根を深くおろすことを大切にする一年でありたいと思います。

(3月7日、教会総会メッセージより)

2010年4月号