だから落胆しない

茂原教会責任牧師 大前 信夫

 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。 - コリント人への第二の手紙4:16 –

1 神を期待するから落胆しない
神を信じていれば、がっかりすることもなく、残念に思うような出来事も起こらない…と言うのではありません。例えば、身体的なことです。正直自分の体力にはがっかりすることがあります。でも聖書は「外なる人は滅びる」、新共同訳聖書では「外なる人は衰える」とあるように、身体的には誰もが衰える。それは自然の理です。

この落胆という言葉を辞書で見てみると、「期待や希望がはずれたときの気持ちが沈むさまを表わす語」とあります。そうすると問題は私の期待、希望が何なのかにあります。その期待、希望がはずれたとき、自分が間違っていたとは思わず、目の前に起こっている状況が間違っていると思うのです。だから落胆してしまう。
 しかし、パウロが「落胆しない」というのは、意志の強さや自分の期待の正しさについて言っていません。神のなさることにおいてなのです。だから神に対して落胆しないと言うわけです。

2 内なる人が新しくされるから落胆しない
 誰にも心や人となり、霊と呼ばれる内なる人があります。私たちがキリストを救い主として受け入れるとき、神はその内なる人を新しく造られます。(同5:17)それはキリストに結ばれること(同5:17新共同訳聖書)であり、祈りと聖書の言葉により神との交わりがつくられていくことです。すると、内なる人が日々新たにされていくとは、神との関係がより深く、親密なものになっていくことと言えます。
だから内なる人がキリストの命につながれているなら、むしろ外なる人の衰えによりさらに鮮やかにキリストの力を経験することになり(同12:9~10)、より深く神の慰めを知るのです。

3 人生のゴールが変わるから落胆しない
このように内なる人が新しくされると、何よりも人生のゴールが変わります。なぜなら何を大切に考えるのか…が変わるからです。もちろんパウロが見ているのは、永遠の栄光というゴール、終着点です。その道程には困難はあります。でも落胆しない、なぜならこのゴールをしっかり見続けているからです。
私たちが「外なる人」の衰えに心が捕らわれている時、信仰の歩みにもゴールがあることを忘れているのかもしれません。目に見えるものに人生のゴールがないことを覚えましょう。目に見えないゴールを信仰により心にとらえるのです。

 この新しい年、見えない世界の広がりの中で、確かに人の思いを超えて働いておられる神がおられます。だから私たちは落胆しないのです。

2017年1月号