「宝を天に積む」
野田信行
教会の事業は様々な方々が様々な奉仕を担ってくださることによって成り立っていますので、とても有難く感謝なことです。しかしその一方で、高齢や多忙な方が、「自分は何も奉仕が出来ずに申し訳ありません。」と言われる言葉を耳にすると、何と肩身の狭い思いをさせているのだろと考えさせられ、とても心が痛みます。これはそのような発言をされる方に何かの問題があるのではなく、そのような言葉が出て来てしまう空気が教会にあることが問題であり、取り除く必要があります。教会には様々な奉仕がありますが、身体を使う作業的な奉仕は、ある程度の年齢になりますと、どうしても難しくなって来ます。誰でも皆、年齢を重ねて行きますので作業はできなくなる時が来ます。しかし教会の奉仕は作業がすべてではありません。
主イエスは、宝を天に積むためには、「見てもらおうとして、人の前で善行(施し、祈り、断食)をしないように注意しなさい」(マタイ6:1)と言われます。偽善者は自分の善行を人に見て褒めてもらうために、会堂や大通りでラッパを吹き鳴らして行なっていました。しかしそれは地上で報いを受ける、地上に宝を積む行いです。主イエスは、善行を隠すなら、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いられ、それが宝を天に積むことであると教えられます。
また最も重要な戒めを問われた主イエスは、第一の戒めは主を愛すること、第二は隣人を愛することであると言われました(マタイ22:38、39)。3つの善行で、施しは第二の戒めである隣人を愛すること、祈りは第一の戒めである主を愛すること、断食は悔い改めることです。宮清めをされた主イエスは、「私の家(教会)は、祈りの家と呼ばれる。」(マタイ21:13)と言われます。
作業は出来なくても礼拝に出席し、悔い改め、祈り、隣人を愛することは天に宝を積む善行であり立派な奉仕です。いつかは礼拝の出席が難しくなる時が来ても、3つの善行は年齢に関係なく、いつになっても、どこにいてもできることです。その時には何も作業は出来なくても、何も後ろめたさなどを感じる必要はありません。私たちは主イエスの十字架によって救われ、聖霊の導きによって、聖書の教えに従い宝を天に積むクリスチャンです。