多くの人の利益を求めて

2020年11月8日
コリントの信徒への手紙一10章23~11章1節

主の御名を賛美します。米国大統領選挙は一応結果が出ました。米国大統領選挙は米国内だけではなくて、日本を含めて色々な国でも議論になりました。次期大統領予定のバイデンはカトリックでクリスチャンです。クリスチャンが国のリーダーであるのは羨ましいものです。分断された米国にはクリスチャン以外の人も多くいますが、融和が進んで一つとなって歩んで貰いたいと思いますし、そう祈りたいと思います。

1、大原則

今日は8章から続いて来た、「偶像に献げた肉を食べることについて」の最後の結論です。まず大原則として、クリスチャンはコリント教会がこれ迄主張して来たように「すべてのことが許されています」。クリスチャンは罪から解放されて自由とされて、すべてのことが許されています。

しかしクリスチャンの自由は、許されているので何をしても良いということではありません。

クリスチャンの自由は、9:18にあったように、自分が持っている権利を敢えて用いないという究極の自由です。

それはなぜかというと、今日のところで、「すべてのことが益になるわけではなくて、またすべてのことが人を造り上げるわけではない」からです。ここでいう益とは誰の益、造り上げるのは誰を造り上げることを意味しているのでしょうか。

次に、「誰でも、自分の利益ではなく、他人の利益を求めなさい」とあります。つまり自分には許されていることでも、それが他人の利益になるか、他人を造り上げることになるかで判断するということです。

これが「偶像に献げた肉を食べることについて」考えるための大原則です。またそれは、クリスチャンが何かをどのようにしたら良いかを考える時の大原則です。その原則は自分に取って正しいか正しくないかではなくて、それが他人の利益になるか、他人を造り上げることになるかです。

2、具体例

そうは言っても世の中は複雑でそれ程、単純には行きません。そこでパウロは状況に合わせて4つの場合の指示をします。一つ目は、8:10の偶像の神殿で食事をすることです。これは良心の弱い人が見たらつまずかせるとありました。また10:20でもそれは悪霊との交わりですので、してはならないと言いました。

二つ目は、市場で売っている物を食べることです。食べる場所は自宅等になるでしょうか。コリントの市場で売られている肉の中には、偶像の神殿に献げられた物が多くありました。それについてパウロは、「市場で売っている物は、いちいち良心に問うことなく何でも食べなさい」と言います。その理由は、「地とそこに満ちるものは、主のもの」だからです。これは詩篇24:1の御言です。この世にあるものは主なる神が造られたものだから食べて良いということです。それは肉が例え偶像の神殿に献げられた物だとしても、肉の成分が何か変わる訳でも何でもありません。

与えてくださる神に感謝の祈りを献げて頂きます。感謝の祈りを献げることによって食物は聖別されます。このパウロの二つ目の指示に従うかどうかによって、この後のクリスチャンが社会とどう関わって行くかという大きな問題になって行きます。三つ目は、信仰のない人に招かれて、それに応じる場合です。もしも二つ目の市場で売っている物を偶像に献げられた物として食べられない場合には、信仰のない人に招かれて応じるのが難しくなります。

それはユダヤ人はレビ記11章の食物規定があって食べられない物がありますので、異邦人との食事は難しいからです。ユダヤ人のクリスチャンは異邦人のクリスチャンとの食事をどうしたら良いかという問題がありました。

ガラテヤ信徒への手紙2:11では、ペトロは異邦人と一緒に食事をしていましたが、ユダヤ人がエルサレムから来ると、異邦人から離れて行ったためにパウロはペトロを非難しました。現代の私たちも偶像礼拝をどう考えるかによって、社会との関り、伝道等も大きく変わって行きます。

三つ目の信仰のない人の家で、「自分の前に出されるものは、いちいち良心に問うことなく何でも食べなさい」とパウロは指示します。それはお客への持て成しとして出されるものですから何でも感謝して頂きます。

3、神殿に献げた肉

四つ目は、誰かが、「これは、神殿に献げた肉です」と言う場合です。これは註解書等によると、三つ目の信仰のない人に招かれた時に、その場所に居合わせた誰かが言う場合とされています。可能性としては、二つ目の市場で売っている物を食べる場合でも良い様な気がします。

ここでこの「誰か」というのは一体どの様な人で、どの様な目的を持って、「これは、神殿に献げた肉です」と言うのでしょうか。色々考えられますが大きくは二種類の人が考えられています。一つ目の人は良心の弱いクリスチャンで、「これは、神殿に献げた肉です」よと、クリスチャンに知らせてあげるためと考えられます。意味としては、「だから食べない方が良いですよ」ということです。

これが一番自然な考えの様に思えます。しかしその場合のことを良く考えてみますと、それ程自然でも無いような気もします。本人は素直な親切心で教えているつもりかもしれません。しかし、「これは、神殿に献げた肉です」と言われなかったら、例え神殿に献げられた肉でも食べようと思っていたクリスチャンも、敢えて知らされてしまったらその肉を食べられなくなってしまうでしょう。

それは正直な発言かも知れませんが、その場の雰囲気を壊してしまう、周りの空気を読まないKYな発言と思われるかも知れません。それは小さな親切、大きな迷惑かも知れません。

二つ目の考えられる人についてですが、ここの「神殿に献げた肉」という言葉は「聖なる供え物」という意味で、クリスチャンが「偶像への供え物」と呼んでいた汚れた物を呼ぶ言い方とは正反対です。つまりそれは、一つ目の良心の弱い人が、「食べない方が良いですよ」という意味を込めたのとは正反対の意味とも考えられます。つまりこの肉は、信仰のないギリシャ人でも良く知っている、あの有名なギリシャ神話の神殿に献げられた有難い肉だから、この際、遠慮しないでどんどんと食べてくださいと勧めるつもりで言ったとも考えられます。

しかしそうすると、28節後半の、「そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません」と辻褄が合わないような気もします。いずれにしても、ここで「良心」というのは自分自身の良心のことではありません。他人の良心です。他人の良心というのは、「これは、神殿に献げた肉です」と知らせてくれた人と、その人が言っているのを聞いている人のことです。

それらの人は、「これは、神殿に献げた肉です」と知らせても、クリスチャンが平気で他の宗教の神に献げた肉を食べているのを見たら、クリスチャンにつまずきを覚えてしまうでしょう。ですからそのような時には、知らせてくれた人、またそれを聞いている人の良心のために、自分は大丈夫でも食べてはいけません。

4、神の栄光を現す

クリスチャン自身の自由は、他人の良心によって左右されることはありません。クリスチャンは26節にあった様に、この世の被造物全ては神が造られたものですから、神に感謝して食事に与かるなら何でも食べる自由があります。

神が造られたものに対して神に感謝して食べるものについて、誰からも悪口を言われる筋合いはありません。しかしパウロは自分の自由の権利を敢えて用いないで節制します。なぜかというと、パウロの目的は自分の自由を貪ることではなくて、神の栄光を現すことだからです。

「だから、食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と言います。パウロは6:20でも「神の栄光を現しなさい」と言いました。6:20の「神の栄光を現す」という意味は、不品行をしないで品行方正に生きるということでした。

ここの「神の栄光を現す」とはどういう意味でしょうか。それは、「ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも、つまずきを与えないようにする」ことです。しかし今のテーマになっている、「偶像に献げた肉を食べることについて」、ユダヤ人も、ギリシャ人も、神の教会であるクリスチャンも全ての人がつまずかない方法などあるのでしょうか。

ありますが、それは9:20の「ユダヤ人には、ユダヤ人のように」個別に対応することです。8章に入ってからの偶像に献げた肉については、使徒言行録15:20に、「偶像に供えて汚れた物を避けるようにと」書いてあったではないかと思っていた方もおられると思います。しかしこれはエルサレム会議で決めたことで、一応異邦人向けの内容ですが、ユダヤ人が決めた内容です。

次にギリシャ人は、多くの神がいる多神教の文化で、すべてのことが許されていると考える自由な人たちです。そのギリシャ人に対してはある程度自由に、25~27節で、市場で売っている物や、招かれて出されるものは何でも食べなさいと勧めます。

神の教会であるクリスチャン向けは8章にあった様に、良心の弱い人をつまずかせないために、偶像の神殿で食事はしないこと、また誰かをつまずかせると思ったら食べないことです。「神の栄光を現す」とは自分が考える正しいことをすることではありません。それぞれに合わせてきめ細かく対応してつまずきを与えないことです。しかし8章から3章も掛けてずっと「偶像に献げた肉を食べることについて」話して来て、最後の結論が、人それぞれをつまずかせないように、それぞれの顔色を窺って八方美人のようにそれぞれに良い顔をすることなのか。

聖書には、「偶像に献げた肉を食べることについて」のきちんとした考えはないのかと思われるかも知れません。無い訳ではありませんが、パウロの食物に対する考えは8:8の、「食物が、私たちを神のもとに導くのではありません。食べなくても不利にはならず、食べても有利にはなりません」です。簡単に言うと、食物のこと等はどうでも良いことで、そのようなどうでも良いことで、人につまずきを与えるのではなくて、柔軟に対応して神のもとに導くことが大切です。

5、多くの人の利益を求めて

パウロは何事につけ、すべての人を喜ばせています。そして人々が救われるために、自分の利益ではなく、多くの人の利益を求めています。考えることは正しいか正しくないか、ではなくて、多くの人の利益になるか、ならないかです。

パウロはなぜその様なことをするのでしょうか。それはキリストがそうされたからです。

キリストはご自分は何も悪いことをされていないのに十字架に掛かられました。

そこに何かご自分の利益はあるのでしょうか。全く何もありません。

それは自分では救いようがない人々が救われるためです。多くの人の利益を求めてのことです。パウロは使徒言行録9章で、ダマスコに行く途中でこのキリストに出会って救われました。キリストはなぜパウロに出会われたのでしょうか。それはパウロは真面目に神を求めていたからです。

神はご自分を求める人に必ず出会ってくださるお方です。まだ出会っておられない方はぜひお求めください。神は必ず出会って、救ってくださいます。神はパウロを救い、多くの人を救うためにパウロを用いています。クリスチャンというのはキリストに似た者という意味です。

元々人間は神のかたちに造られた者ですが、罪のために神のかたちが損なわれています。しかし主イエスを信じて救われる者は、聖霊の力によって神のかたちを回復してキリストに似た者とされて行きます。クリスチャンはキリストに倣う者です。

この世の価値観は自分の利益を求めるものです。しかし二千年前にキリストはご自分の利益ではなくて、人々を救うために多くの人の利益を求めて十字架に付かれました。私たちは聖霊の導きの中で、キリストの思いに応える者とさせて頂きましょう。そして既に救われている方は、キリストに倣う者として、人々の救いのために、多くの人の利益を求めて歩ませて頂きましょう。

6、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。パウロは、コリント教会で議論となっていた「偶像に献げた肉を食べることについて」、3章に渡って書いて来ました。しかしその結論は食べることではなくて、人につまずきを与えないように、人の救いのために多くの人の利益を求めなさいとのことです。

私たちは不完全な知識しかないにも関わらず、自分の考える正しさに拘ってしまう愚かな者です。私たちが自分を見るのではなくて、二千年前に人々の救いのためにご自分を犠牲にされて私たちに救いの道を開いてくださったキリストを見上げて、キリストに倣っていつも歩んで行くことが出来ますように、聖霊の力によってお導きください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。