忠実な管理者

2020年6月7日
コリント人への第一の手紙4章1~13節

主の御名を賛美します。最近、本当に久し振りに自分の部屋、特に机の周りの整理、掃除をしました。散らかっていた書類などを片付けて机の周りを整理すると机に向かうのが気分良く楽しくなります。そして掃除をすると、どこにこんなに隠れていたのかと思うほどの沢山のほこり等が出て来ます。気持ちが良いので、他のことも色々と整理して行きたいと思っています。

1、忠実な管理者

この4章は1章から続いて来た、教会の争いの問題の最終章ですので、このようなわけだからと、纏めとして言います。パウロが「人がわたしたちを・・・」と言っている、「わたしたち」とは誰のことでしょうか。狭い意味では6節にあるアポロと自分の様な伝道者のようですが、広い意味ではパウロの同労者全て、それはまたクリスチャン全員であると言えます。

そしてそのわたしたちを二つの者と見るがよいと言います。一つ目は、キリストに仕える者です。ここの「仕える」は3:5の言葉の意味とは違います。3:5は給仕をするしもべですが、ここの仕える者は、「下で盧をこぐ」という意味です。それは、船の底で盧をこぐ奴隷のことで、過酷な肉体労働と指示に絶対的に服従するという意味です。

そしてもう一つは、神の奥義を管理している者です。神の奥義は福音ですから、神の奥義の管理とは、福音を宣べ伝えることです。そして、この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることです。忠実(ピストス)という言葉は、信仰(ピスティス)と同語根の言葉です。忠実とは信仰的であることです。

福音書で、「忠実な管理者、しもべ」と言われているのは、マタイ25章で5タラントと2タラントを与えられた者がタラントを用いて増やしたしもべと、ルカ12:42で召使たちの上に立てられて、時に応じて定めの食事をそなえさせた者です。

忠実な管理者は、主人の持ちものに対する主人の意図、思いを正しく知って実行する者です。

パウロ自身もその様な忠実な管理者ですので、心に掛けることは主人の思いだけです。

2、自分をさばくことをしない

ですからパウロは、コリント教会にさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しません。コリント教会のパウロに対するさばきは、色々とあったようです。9:2、3を見ると、パウロが使徒であることに対する疑問の声や、批判者がいると書かれています。

そしてさばく者に対しての反論をこの手紙で書いて収まったのかというとそうでもなくて、この手紙の後に続く、コリント人への第二の手紙10:10には、「パウロの手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」と言っている人がいると書かれています。

パウロでさえその様に言われるのですから、伝道者は色々と大変です。しかしパウロは自分をさばくこともしません。自分をさばくことをしないというのは、自分のことは棚の上に上げて自分の思いや、行うことは一切省みないということではありません。

パウロは、「わたしは自ら省みて、なんらやましいことはない」と言い、一見すると凄いことを言っているように聞こえますが、それはどの様な意味なのでしょうか。この手紙の前のローマ7:15で、パウロは「わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしている」と言っていました。

それなのに、「なんらやましことはない」とはどういうことでしょうか。

パウロは自分が人間として何の罪もなくて、「なんらやましいことはない」と言っているのではありません。実際ローマ3:10では、「義人はいない。ひとりもいない」と言っていました。

つまりここでパウロが、「なんらやましことはない」と言うのは、「キリストに仕える者」、「神の奥義を管理している者」としての職務としては忠実であり、やましいことはないという意味です。

ただそのことで義、神の前に正しい者とされているわけではありません。

人が義、神の前に正しい者とされるのは、あくまでも主イエス・キリストの対する信仰だけです。

3、さばいてはいけない

そしてそのことをさばかれるのは、主なる神だけです。それは3:13にあった様に、主イエスがこの世に再びこられる日に、火によってためされて、さばかれます。主がさばかれる前に、不完全な私たち人間が、先走りをしてさばいてはいけません。他の人をさばくことは先走ることです。

先々週の3:10~17の話ですと3タイプの人がいました。それであの人の仕事は立派だから、金、銀、宝石で報酬を受けて、あの人はそうでもないから、木、草、わらの仕事で、燃えてしまってかろうじて救われて、あの人は神の宮を破壊するから滅ぼされる者だ等と言うことは、さばくことです。

「先走りをしてさばいてはいけない」ことは主イエスが言われていたことです。マタイ13:24からの毒麦の譬えでは、「例え毒麦があっても、毒麦と一緒に麦も抜いてしまうかも知れないので、収穫までそのまままにしておけ」と言われました。さばきは人がすることではありません。

主がこられた時にされることは、「暗い中に隠れていることを明るみに出し」、「心の中で企てられていることを、あらわにされ」ます。二つとも同じことです。私たち人間には表面的なことしかわかりませんが、主は火によってためされて、奥深いところを見られます。

コリント教会は、指導者であるパウロやアポロをさばいて、わたしはパウロにつく、わたしはアポロになどと言っています。しかしパウロから幼な子に話すように話されていたコリント教会が、パウロの心の中の企てを正しくさばくことなど到底出来るものではありません。

主が再びこの世に来られる時に、パウロもアポロもそれぞれにほまれを受けることになります。

その時にはマタイ25章で5タラントと2タラント与えられた僕が、それぞれ同じタラントをもうけた時に言われた様に、「良い忠実な僕よ、よくやった」と言ってほまれを受けます。

4、定めを越えない

パウロはこれらのことをパウロ自身とアポロとに当てはめて言って聞かせました。

なぜパウロとアポロに当てはめたのでしょうか。それはパウロとアポロはもうコリント教会にいないので、名前を挙げても余り問題がないということがあります。

パウロやアポロをさばいてはいけないというのは、一般論として指導者をさばいてはいけないということです。しかしパウロが本当に言いたかったこと、本丸は恐らく現在コリント教会にいる指導者のことではないかと思います。

敢えて名前を挙げてその人をさばいてはいけないというのは、直接的過ぎると思って控えたのではないでしょうか。「しるされている定めを越えない」とは3:5の様に聖書に書かれている、主から与えられた自分の分に応じて、わきまえることです。

「ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげる」のは高ぶりです。ほかの人を見さげるというのは、自分がその人よりも上に立って、上から目線でさばくことです。指導者と言っても人間ですから、全てを一人で出来る訳ではありません。経験の少ない伝道者であればなおさらです。その様な人をさばいて見さげて、自分が高ぶっても何もプラスにはなりません。自分が出来ることを、自分に与えられた分として仕える者でありたいものです。

5、もらっていないものがあるか

「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか」という文章は、原語では、「誰があなたを(他の人と)異ならせているのか」という意味です。一人一人を特別な存在として造られたのは神です。自分自身ではありません。

そしてその後の「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」という文章は、私は日本語的に意味が初めは全く分かりませんでした。

暫く考えてこの二つの文章は、人間が持っているものは自分の力で得たのではなくて、神からもらったり、パウロやアポロ等を通して教えてもらったものということです。それらをもし他からもらっているなら、なぜもらったのではなくて、自分の力で得たもののように誇るのかという意味です。

6、すでに

コリント教会員は自分で全てを得た様に誇っていました。そしてコリント教会員は3つの状態になっていました。それは、すでに満腹し、すでに富み栄えて、パウロたちを差しおいて王になっています。パウロがここで、「すでに」と2回繰返して強調している意味は、クリスチャンが「すでに」その様な状態になることは有り得ないという意味です。

コリント教会員は預言や異言の賜物を受けて、世の終りの終末は「すでに」来たと考えたようです。これはコリント教会だけではなくて、テサロニケ教会にも同じ問題があったことがⅡテサロニケ2:2に書かれています。

コリント教会はこの世の終わりの終末に受ける栄光に、勝手に先走りして浸っていました。パウロはコリント教会が自己満足の王ではなくて、本当の王になっていてくれたらと思う、そうであったなら、わたしたちも、本当の終末が来た時に、あなたがたと共に王になれたであろう、と言います。コリント教会が王の様に振舞っている一方で、パウロたちはどの様な状況に置かれているのでしょうか。

7、ちり、くず

神はパウロたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、見せ物にされました。これは当時ローマの闘技場で、見せ物の最後に死刑囚が出場して、獣と戦わせたり、死刑囚同士が戦わせられたことに例えています。

パウロはさらにコリント教会と自分たちを比べて、自分たちはキリストのゆえに、愚かな者、弱い、卑しめられている、しかしコリント教会は賢い者となり、強い、尊ばれています。

さらにパウロたちの現在の状況の6つの特徴の内、飢え、かわき、宿なしは伝道旅行の苦労、裸にされは盗賊の難、打たれは迫害、苦労して自分の手で働いているは伝道の苦労です。

さらに3つの苦労として、はずかしめ、迫害、ののしりもありますが、それに報復のするのではなくて、祝福し、耐え忍び、優しい言葉をかけます。これはマタイ5:44の、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」の通りです。

最終的にはパウロたちは、今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされています。ちり、くずと言うと、私たちは、ああ、ごみの様な扱いだと思います。しかしこの後の16節bには、「わたしにならう者となりなさい」とあります。パウロはコリント教会にごみの様になれと言っているのでしょうか。

ちりやくずはどうやって出て来るものでしょうか。それは何かを掃除して綺麗にすると出て来るものです。パウロはその様に他の人を清めるために、自分はちり、くずのようにされることを受け入れる、それが忠実な管理者であると言っているのではないでしょうか。

忠実、信仰的な生き方のお手本は主イエスがその生涯を通して現わしてくださいました。

聖霊の力を頂いて私たちも忠実な管理者として歩ませて頂きましょう。そして主イエスが再び来られる時には、「良い忠実な僕よ、よくやった」とほまれを受けさせて頂きましょう。

8、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。あなたは、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者に要求されているのは忠実であることと言われます。あなたを信じる者には、この世では様々な苦労、堅い食物が与えられます。

しかしあなたは私たちを耐えられない試練には会わせることはなく、万事を益となるようにして下さいますから有難うございます。今、困難の中にある方々をお守りくださり、お導きください。

そして私たちがこの世の歩みをしっかりと走り抜き、天国であなたからのほまれを受ける者とさせてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。