信者によるきよめ

2020年7月19日
コリント人への第一の手紙7章12~16節

主の御名を賛美します。結婚は神が制定された制度ですので祝福もありますが、ふたりは一体となるとは言え、元々は別の人同士が一緒になるので大変なこともあります。同じ神を信じて、同じ聖書に従おうとするクリスチャン同士の夫婦でも難しい時もあります。

ましてや、夫婦の片方だけがクリスチャンであったり、二人共にクリスチャンでない場合にはさらに難しいこともあるかも知れません。上手く行っている時には良いのですが、そうではなくなった時にどの様に考えれば良いのでしょうか。御言を聴かせて頂きましょう。

1、ほかの人々にパウロが言う

パウロは、「そのほかの人々にいう」と言いますがが、「そのほかの人々」というのはどういう人々のことでしょうか。この直ぐ前の10、11節は結婚しているクリスチャン同士の夫婦に対してです。

12節からは、夫婦の内の一人がクリスチャンで、もう片方はクリスチャンではない場合です。

クリスチャンではない人を口語訳では不信者と訳していますが、これは少し驚く訳だなと思います。

不信者は信者ではないという意味ですが、不審者とも発音出来ますので、現代では余り良い訳ではありません。最近ですと未信者と言う言い方をします。口語訳は1955年に出版されて65年経っていますので、やはり時代に合わせて聖書の翻訳は変えて行く必要があると思います。

夫婦の一人が信者で、もう一人が未信者である場合が、どの様な経緯でなったのかということですが、まず一つ目の場合は、結婚の初めからそうだった場合、信者が未信者と結婚する場合です。

旧約聖書でも、エステル記のエステルは信者ですが未信者のアハシュエロス王と結婚しました。

新約聖書ではパウロの弟子の伝道者であるテモテはお母さんのユニケは信者ですが、ギリシャ人のお父さんは信者ではありませんでした。皆さんの中にも結婚をする時に自分は信者だったけれど、相手はそうではなかった方もおられると思います。

またもう一つの場合は結婚する時には夫婦共に信者ではなかったけれど、結婚した後に夫婦の内のどちらか一人が信者になった場合です。皆さんの中にはそういった方もおられると思います。そういう人々に対して、これからのことを言うのは主イエスではなくて、パウロです。これは10節の逆のパターンです。

何だ、パウロが個人的に言うことなら、神である主イエスが言っていることではないので、そんなに大切なことではない、ということではありません。「主が言うのではない」というのは、主イエスがその様な場合のことを言われた言葉ではない、福音書にはそのことについて書いていないということです。

そしてパウロが言うことは、聖霊の霊感を受けて語る御心の言葉ですので、聖書の他の言葉と比べて何か劣るということはありません。私たちは聖書の御心を良く理解して、聖霊の導きを求めながら時代に合わせて御言葉を適用して行く必要があります。

2、離婚してはいけない

そして夫婦の内、一人が信者の場合、それが、夫であろうと妻であろうと、結婚相手が共にいることを喜んでいる場合、つまり結婚生活を続けたいと望んでいる場合には離婚してはいけません。

これは信仰者として普通に考えてそうだろうなと思います。

ところで、パウロは10節で「別れてはいけない」、11、12、13節では3回、「離婚してはいけない」と繰り返して、離婚をしてはいけない強調します。

パウロはなぜ、コリント教会の信者である兄弟姉妹に、未信者の結婚相手が結婚を続けることを望んでいる場合には、離婚してはいけないとわざわざ言う必要があったのでしょうか。パウロがこの様なことを書き送るということは、その様なかたちで、離婚することがあったためと考えられます。

それは先週お話しましたが、パウロに手紙を書いて来たのが、コリント教会の右派で、「男子は婦人にふれないがよい」のでしょうかと聞いて来る様な、とても禁欲的な、ある意味で律法主義に近い考えであったためです。

結婚前から信者と未信者の夫婦であれば初めからそうだったので特に問題はないかも知れませんが、夫婦共に未信者であった者の一人が結婚した後に信者になる場合に、とても厳しく考える人もいます。どの様に考えたかと言いますとパウロの勧める内容から想像することが出来ます。

それは自分は信者となってきよめられたけれど、結婚相手は未信者で信じようとする気配もないので、きよくないという考えです。そして信者とならない結婚相手と結婚生活を続けていると、6:16の様に「ふたりの者は一体になる」のですから、自分までもがきよくなくなってしまうと考えて離婚したのかもしれません。しかしパウロは未信者である結婚相手が望まない離婚をしてはいけないと言います。

3、きよめられている

しかしただ「離婚してはいけない」という命令だけでは、未信者との結婚を続けていては、きよくなくなってしまうという人に対しての答えになりませんので説明をします。それは、未信者である夫は信者である妻によってきよめられており、また、未信者の妻も信者の夫によってきよめられている、ということです。

この未信者が信者の配偶者によってきよめられているというのはどういう意味なのでしょうか。

まずその前に信者のきよめとはどういうものでしょうか。それは6:11にあった様に、「主イエス・キリストによって、また神の霊によって、洗われ、きよめられ」たことです。

信者がきよめられているというのは、信者はきよい行いをして、未信者はきよめられていなくて、汚れているということではありません。きよめられたとは、6:11の後にある様に、義とされたこと、神の前に正しい者とされたことです。神の救いの恵みに与かったことです。

そしてこのきよめは、信者が遊女と関わると、ふたりは一体となって、信者は遊女の不品行に引き下げられてしまいますが、信者と未信者の結婚は未信者をきよめに引き上げるということです。

その結果として信者と未信者の夫婦に生まれてくる子どもはきよいものです。

ところでここのところでいう、未信者の結婚相手や子どもに対する、信者によるきよめとはどういうものなのでしょうか。信者と結婚している未信者や信者の子どもはきよいので、自動的に救われていて天国に入るのでしょうか。そうではないようです。16節に「あなたが夫や妻を救いうるかどうか。どうしてわかるか」とある通りです。

ここでいうきよめは神の恵みの中に置かれているという意味です。未信者は信者であるきよめられた結婚相手と一体となった者であって、信者の結婚相手に祈られていて、信者と関わりの中に生きます。また信者の子どもは現代であれば幼いうちから教会学校等に行き、親に祈られている存在です。

信者が祝福の基となりますので、信者の家族は祝福の恵みに与かるものです。

それは信者の家族は、使徒行伝16:31の「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」という神の恵みの中にあるということです。信者が一人いると祝福は広がって行きます。

4、平和のへの召し

未信者はそのような神の恵みの中にあるのですが、もし未信者の方が信者である結婚相手から離れて行くのなら、離れるままにしておきます。「来る者は拒まず去る者は追わず」ということです。

神は、あなたがたである信者を平和に暮させるために、召されました。

信者と未信者では価値観が違います。時には信仰的な価値観の違いから色々な諍いが起こることもあるかも知れません。その様な時に未信者が共にいることを喜んでいる場合には信者から離婚してはいけませんが、未信者の方から離れて行くのは、信者を平和に暮させるための導きなのかも知れません。

5、束縛されてはいない

そして信者である兄弟である夫も、姉妹である妻も、こうした場合には、束縛されてはいません。ここに大きな問題があります。それは束縛されていないというのは、一体何に束縛されてはいないということなのでしょうか。

原語には何に束縛されてはいないということは書かれていませんが、大きく二つの考え方があります。

一つ目は、新共同訳と協会共同訳では、「結婚に縛られてはいない」と訳しています。

この訳は良いのですが、そこから考えて、結婚に縛られてはいないのだから、それは離婚の理由として認められる、さらに信者には再婚する自由があると考えます。

そしてその理由として16節で、信者である妻にせよ夫にせよ、未信者である夫や妻を救えるかどうかはわからないことですからね、となります。これが従来の一般的な考え方です。

実際、今の説明が書かれている註解書は多くあります。皆さんは今の考え方を納得されるでしょうか。

しかし最近は今の考え方に疑問が上がっています。それは主イエスが、マタイ5:32で、「だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるものである」と言われ、不品行だけが離婚の理由であると言われた主イエスの教えと違うことです。

そういう意味でパウロが、「これを言うのは、主ではなく、わたしである」と言っているとは思えません。

主イエスが離婚の理由は不品行だけと言われているのに、未信者の方から離れて行くなら離婚しても良いと言うのは軽過ぎますし、余りにもこの世的な考えで、そこには十字架の贖いによって救われた信仰者の信仰が見えません。

パウロも10~13節で、4回も別れてはいけない、離婚してはならないと言っているのに、急に未信者の方から離れて行ったら離婚しても良いというのは整合性がありません。

また次の17節の「神に召されたままの状態に従って、歩むべきである」ということとも矛盾します。

さらに再婚しても良いと考えるのは11節aとも矛盾します。

ここの聖書個所の意味を考えていると、ルカ15:11からの放蕩息子の話が思い浮かびます。放蕩息子は自分のお父さんが生きている時に自分の相続財産を貰ってお父さんから離れて行きました。

お父さんは放蕩息子を引き留めることなく離れるままにしておきました。しかしお父さんは放蕩息子を見捨てて縁を切ったのではなくて、放蕩息子のことを思って祈って待ち続けました。

だからと言って放蕩息子の話から未信者の結婚相手の方から離れて行くときに、離婚してはいけないと言う様な律法的な事をいうつもりはありません。

しかし離婚の問題は複雑で、十把一絡げで話すのは難しいことで、一つ一つのケースを丁寧に考える必要があります。しかし原則としては信仰者は、離れて行く未信者には束縛されてはいませんが、放蕩息子のお父さんの様に、離れて行く者を憐れみによって待ち続けるものではないでしょうか。

それは22節にある通りです。16節は、信者が未信者の結婚相手を救いうるかどうかはわかりませんが、救いの役割の一端を担えるかも知れないということを言っているのではないでしょうか。

結婚はふたりの者が一体となるものですから、一度は一体となった者として、ぜひ救いの役割を担う者でありたいものです。

キリストの十字架の贖いによって救われる者は、自分に与えられた十字架をとって生きるものです。

そしてその重荷は自分一人で負うものではなくて、主が共に担ってくださり、休みを与えてくださいます。恵みによって先にきよめに与る者は、聖霊の導きの中で、そのきよめを愛する人たちに伝える者として用いて頂きましょう。

7、祈り

ご在天なる父なる神様、御名を崇めます。私たちは主イエス・キリストの十字架の贖いの恵みによって救われ、きよめられる者です。どうか先にこの恵みに与る者がその恵みを愛する人々に伝える者として、聖霊の導きの中であなたの御用に用いてください。主イエスキリストの御名によってお祈り致します。アーメン。